・・・俺はほっと一息しながら、思わず馬車の方へ目を転じた。すると馬は――馬車を牽いていた葦毛の馬は何とも言われぬ嘶きかたをした。何とも言われぬ?――いや、何とも言われぬではない。俺はその疳走った声の中に確かに馬の笑ったのを感じた。馬のみならず俺の・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・そこで、娘も漸く、ほっと一息つく事が出来ました。」「私も、やっと安心したよ。」 青侍は、帯にはさんでいた扇をぬいて、簾の外の夕日を眺めながら、それを器用に、ぱちつかせた。その夕日の中を、今しがた白丁が五六人、騒々しく笑い興じながら、・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・もう一息と彼れは思った。――その時突然桟敷の下で遊んでいた松川場主の子供がよたよたと埒の中へ這入った。それを見た笠井の娘は我れを忘れて駈け込んだ。「危ねえ」――観衆は一度に固唾を飲んだ。その時先頭にいた馬は娘の華手な着物に驚いたのか、さっと・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 荒海の磯端で、肩を合わせて一息した時、息苦しいほど蒸暑いのに、颯と風の通る音がして、思わず脊筋も悚然とした。……振返ると、白浜一面、早や乾いた蒸気の裡に、透なく打った細い杭と見るばかり、幾百条とも知れない、おなじような蛇が、おなじよう・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・と奴は一息に勇んでいったが、言を途切らし四辺を視めた。 目の前なる砂山の根の、その向き合える猛獣は、薄の葉とともに黒く、海の空は浪の末に黄をぼかしてぞ紅なる。 八「そうする内に、またお猿をやって、ころりと屈ん・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 自分はあわてながらもむつかしいなと腹に思いつつなお一息と走った。 わやわやと騒がしい家の中は薄暗い。妻は台所の土間に藁火を焚いて、裸体の死児をあたためようとしている。入口には二、三人近所の人もいたようなれどだれだかわからぬ。民子、・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・「まア、一息つき給え」と、僕は友人と盃の交換をした。酔いもまわったのであろう、友人は、気質に似合わず、非常にいい気持ちの様子で、にこにこ笑うている。然し、その笑いが何となく寂しいのは、友人の周囲を僕に思い当らしめた。「久し振りで君が・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・二人は、いままでゆかなかったような、遠方まで、一息に走ってゆくことができました。「清ちゃん、こんな遠いところまで、たびたびきたことがある?」「きたことはない。きょうは吉ちゃんが、いっしょだから、僕きたんだよ。」と、清ちゃんは、気強か・・・ 小川未明 「父親と自転車」
・・・力ない病人の呼吸は一息ごとに弱って行って、顔は刻々に死相を現わし来たるのを、一同涙の目に見つめたまま、誰一人口を利く者もない。一座は化石したようにしんとしてしまって、鼻を去む音と、雇い婆が忍びやかに題目を称える声ばかり。 やがてかすかに・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・さあ、一息にぱっと飲みなはれ」 と、言いながら、懐ろから盃をとりだした。「この寸口に一杯だけでよろしいねん。一日に、一杯ずつ、一週間も飲みはったら、あんたの病気くらいぱらぱらっといっぺんに癒ってしまいまっせ。けっ、けっ、けっ」 ・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫