・・・そしてもしそれを一服喫ったとする場合、この何日間か知らなかったどんな恐ろしい咳の苦しみが襲って来るかということも吉田はたいがい察していた。そして何よりもまず、少し自分がその人のせいで苦しい目をしたというような場合すぐに癇癪を立てておこりつけ・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・どれどれ今日は三四日ぶりで家へ帰って、叔父さん叔父さんてあいつめが莞爾顔を見よう、さあ、もう一服やったら出掛けようぜ」と高話して、やがて去った。これを聞いていた源三はしくしくしくしくと泣き出したが、程立って力無げに悄然と岩の間から出て、流の・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・昔と今とは違うが、今だって信州と名古屋とか、東京と北京とかの間でこの手で謀られたなら、慾気満よくけまんまんの者は一服頂戴せぬとは限るまい。片鎧の金八はちょっとおもしろい談だ。 も一ツ古い談をしようか、これは明末の人の雑筆に出ているので、・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・朝寝の枕もとに煙草盆を引きよせて、寝そべりながら一服やるような癖もついた。私の姉がそれをやった時分に、私はまだ若くて、年取った人たちの世界というものをのぞいて見たように思ったことを覚えているが、ちょうど今の私がそれと同じ姿勢で。 私はも・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・静かに寝床の上で身動きもせずにいるような隣のおばあさんの側で枕もとの煙草盆を引きよせて、寝ながら一服吸うさえ彼女には気苦労であった。のみならず、上京して二日経ち、三日経ちしても、弟達はまだ彼女の相談に乗ってくれなかった。成程、弟達は久しぶり・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ この子供衆の多勢ゴチャゴチャ居る中で、学士が一服やりながら朝顔鉢を眺めた時は、何もかも忘れているかのようであった。「今咲いてますのは、ホンの丸咲か、牡丹種ぐらいなものです」と学士は高瀬に言った。「真実の獅子や手長と成ったら、どうし・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・大家にならずともよし、傑作を書かずともよし、好きな煙草を寝しなに一本、仕事のあとに一服。そのような恥かしくも甘い甘い小市民の生活が、何をかくそう、私にもむりなくできそうな気がして来て、俗的なるものの純粋度、という緑青畑の妖雲論者にとっては頗・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・何事も知らぬ顔して、池のほうへ、そっと視線を返し、自分の心を落ちつかせる為に袂から煙草を取出して一服吸った。「僕の名はね、」あきらかに泣きじゃくりの声で、少年は、とぎれとぎれに言い出した。「僕の名はね、佐伯五一郎って言うんだよ。覚えて置・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・また現代世界の科学界に対する一服の緩和剤としてこれを薦めるのもあながち無用の業ではないのである。 寺田寅彦 「科学上の骨董趣味と温故知新」
・・・ 火の消えない吸殻を掌に入れて転がしながら、それで次の一服を吸付けるという芸当も真似をした。この方はそんなに六かしくはなかったが時々はずいぶん痛い思いをしたようである。やはりそれが出来ないと一人前の男になれないような気がしたものらしい。・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
出典:青空文庫