出典:青空文庫
・・・ですから妙子は一生懸命に、震える両手を組み合せながら、かねてたくんで置いた通り、アグニの神が乗り移ったように、見せかける時の近づくのを今か今かと待っていました。 婆さんは呪文を唱えてしまうと、今度は妙子をめぐりながら、いろいろな手ぶりを・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ その言葉が終らない内に、おすみも遥かにおぎんの方へ、一生懸命な声をかけた。「おぎん! おぎん! お前には悪魔がついたのだよ。祈っておくれ。祈っておくれ。」 しかしおぎんは返事をしない。ただ眼は大勢の見物の向うの、天蓋のように枝・・・ 芥川竜之介 「おぎん」
・・・そして一生懸命にめんかきをして、ようやく水の上に顔だけ出すことが出来ました。その時私たち三人が互に見合せた眼といったら、顔といったらありません。顔は真青でした。眼は飛び出しそうに見開いていました。今の波一つでどこか深い所に流されたのだという・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・ そうしたら八っちゃんは婆やのお尻の所で遊んでいたが真赤な顔になって、眼に一杯涙をためて、口を大きく開いて、手と足とを一生懸命にばたばたと動かしていた。僕は始め清正公様にいるかったいの乞食がお金をねだる真似をしているのかと思った。それで・・・ 有島武郎 「碁石を呑んだ八っちゃん」
・・・正義だの、人道だのということにはおかまいなしに一生懸命儲けなければならぬ。国のためなんて考える暇があるものか!」 かの早くから我々の間に竄入している哲学的虚無主義のごときも、またこの愛国心の一歩だけ進歩したものであることはいうまでもない・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・ おら一生懸命に、艪で掻のめしてくれたけれど、火の奴は舵にからまりくさって、はあ、婦人の裾が巻きついたようにも見えれば、爺の腰がしがみついたようでもありよ。大きい鮟鱇が、腹の中へ、白張提灯鵜呑みにしたようにもあった。 こん畜生、こん・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 省作も一生懸命になって昼間はどうにか人並みに刈ったけれど、午後も二時三時ごろになってはどうにも手がきかない。おはまはにこにこしながら、省作の手もとを見やって、「省さんはわたしに負けたらわたしに何をくれます……」「おまえにおれが・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・戦争の火は人間の心を焼き清めて、一生懸命の塊りにして呉れる。然し、こおうなればどこまでもこわいものやさかい、その方でまた気違いになるんもある。どッちゃにせい、気違いや。大石軍曹などは一番ええ、一番えらい方の気違いや。」「うちの人もどっち・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・と、或時近所の、今なら七銭均一とか十銭均一とかいいそうな安西洋料理へ案内した時にいうと、「だから君の下宿のお膳を一生懸命研究しているじゃアないか、」と抜からぬ顔をして冷ましていた。それでも西洋料理は別格通でなかったと見えて、一向通もいわずに・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・ 蝋燭屋では、絵を描いた蝋燭が売れるのでお爺さんは、一生懸命に朝から晩まで蝋燭を造りますと、傍で娘は、手の痛くなるのも我慢して赤い絵具で絵を描いたのであります。「こんな人間並でない自分をも、よく育て可愛がって下すったご恩を忘れてはな・・・ 小川未明 「赤い蝋燭と人魚」