・・・そうしてまた生垣の蔭に犬殺しの姿が隠れるが早いか、可哀そうな黒を残したまま、一目散に逃げ出しました。 その途端に罠が飛んだのでしょう。続けさまにけたたましい黒の鳴き声が聞えました。しかし白は引き返すどころか、足を止めるけしきもありません・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・はね起きて追いにかかると一目散に逃げたと思った女は、反対に抱きついて来た。二人は互に情に堪えかねてまた殴ったり引掻いたりした。彼れは女のたぶさを掴んで道の上をずるずる引張って行った。集会所に来た時は二人とも傷だらけになっていた。有頂天になっ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 樹島は、ただ一目散に停車場へ駈つけて、一いきに東京へ遁げかえる覚悟をして言った。「御新姐の似顔ならば本懐です。」―― 十二月半ばである。日短かな暮方に、寒い縁側の戸を引いて――震災後のたてつけのくるいのため、しまりがつかな・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・――さあ、その時は、前後も存ぜず、翼の折れた鳥が、ただ空から落ちるような思いで、森を飛び抜けて、一目散に、高い石段を駈け下りました。私がその顔の色と、怯えた様子とてはなかったそうでございましてな。……お社前の火事見物が、一雪崩になって遁げ下・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・……そうかと思うと、今になって一目散に駆出すのがある。心は種々な処へ、これから奥は、御堂の背後、世間の裏へ入る場所なれば、何の卑怯な、相合傘に後れは取らぬ、と肩の聳ゆるまで一人で気競うと、雨も霞んで、ヒヤヒヤと頬に触る。一雫も酔覚の水らしく・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・この人が来なんだら、僕は一目散に逃げてしもたやも知れんのや。僕はこわごわ起きあがってその跡に付いてたんやけど、何やら様子が不思議やったんで、軍曹に目を離さんでおったんやが、これはいよいよキ印になっとるんや思た、自分のキ印には気がつかんで――・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・私は慄るい上って縁がわから飛び下り、一目散に飯塚の家から駈け出しました。 それからというものは決して飯塚に参りません、おさよに途で逢っても逃げ出しました。おさよは私の逃げ出すのを見ていつもただ笑っていましたから、私はなおおさよが自分を欺・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・果して屈静源は有司に属して追理しようとしたから、王廷珸は大しくじりで、一目散に姿を匿してしまって、人をたのんで詫を入れ、別に偽物などを贈って、やっと牢獄へ打込まれるのを免れた。 談はこれだけで済んでも、かなり可笑味もあり憎味もあって沢山・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・自動車呼びとめて、それに乗ってドアをばたんと閉じ、一目散に逃げ去りたい気持なのである。犬同士の組打ちで終るべきものなら、まだしも、もし敵の犬が血迷って、ポチの主人の私に飛びかかってくるようなことがあったら、どうする。ないとは言わせぬ。血に飢・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・藪を飛び越え森を突き抜け一直線に湖水を渡り、狼が吠え、烏が叫ぶ荒野を一目散、背後に、しゅっしゅっと花火の燃えて走るような音が聞えました。「振り向いては、いけません。魔法使いのお婆さんが追い駆けているのです。」と鹿は走りながら教えました。・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
出典:青空文庫