・・・蝋燭を二梃も立てて一筋の毛も等閑にしないように、鬢に毛筋を入れているのを、道太はしばしば見かけた。それと反対で毛並みのいいお絹の髪は二十時代と少しも変わらなかった。ことにも生えぎわが綺麗で、曇のない黒目がちの目が、春の宵の星のように和らかに・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ 道の片側は土地が高くなっていて、石段をひかえた寂しい寺や荒れ果てた神社があるが、数町にして道は二つに分れ、その一筋は岡の方へと昇るやや急な坂になり、他の一筋は低く水田の間を向に見える岡の方へと延長している。 この道の分れぎわに榎の・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・肩に負う髪の時ならぬ波を描いて、二尺余りを一筋ごとに末まで渡る。 夫に二心なきを神の道との教は古るし。神の道に従うの心易きも知らずといわじ。心易きを自ら捨てて、捨てたる後の苦しみを嬉しと見しも君がためなり。春風に心なく、花自ら開く。花に・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・そしてそれが彼女の望み少い生命にとっての最後の試みであるだろうと思っていた。一筋の藁だと思っていた。 可哀想に此女は不幸の重荷でへしつぶされてしまったんだ。もう希望を持つことさえも怖しくなったんだろう。と私は思った。 世の中の総てを・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ あるいは父母の性質正直にして、子を愛するを知れども、事物の方向を弁ぜず、一筋に我が欲するところの道に入らしめんとする者あり。こは罪なきに似たれども、その実は子を愛するを知て子を愛するゆえんの道を知らざる者というべし。結局その子をして無・・・ 福沢諭吉 「中津留別の書」
・・・なりけり秋の山 伊豆相模境もわかず花すゝき 二十余年前までは金紋さき箱の行列整々として鳥毛片鎌など威勢よく振り立て振り立て行きかいし街道の繁昌もあわれものの本にのみ残りて草刈るわらべの小道一筋を除きて外は草の生い出でぬ処もなく僅・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・ 智慧のよろこびも、肉体の歓喜も奪われた日々の裡で、若さゆえに、一筋の情熱を守って自身の成長を念願してきた女性の心情こそ、明日へ伸びてゆく日本の浄き母なる力です。 私たちは正しい希望と発案とを集め、それを組織することを学びましょう。・・・ 宮本百合子 「明日を創る」
・・・そこでかれは糸の一条を語りはじめた。たれも信ずるものがない、みんな笑った。かれは道すがらあうごとに呼びとめられ、かれもまた知る人にあえば呼びとめてこの一条を繰り返し繰り返し語りて自分を弁解し、そのたびごとにポケットの裏を返して見せて何にもも・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・一族のものは市太夫の復命を聞いて、一条の活路を得たような気がした。そのうち日が立って、天祐和尚の帰京のときが次第に近づいて来た。和尚は殿様に逢って話をするたびに、阿部権兵衛が助命のことを折りがあったら言上しようと思ったが、どうしても折りがな・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・今より後の世には、その比は延喜一条院の御代などの如くしのび侍るべく哉」。すなわち応永、永享は室町時代の絶頂であり、延喜の御代に比せらるべきものなのである。しかるに我々は、少年時代以来、延喜の御代の讃美を聞いたことはしばしばであったが、応永永・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫