・・・異様なる持主は、その鼻を真俯向けに、長やかなる顔を薄暗がりの中に据え、一道の臭気を放って、いつか土間に立ってかの杖で土をことことと鳴していた。「あれ。」打てば響くがごとくお米が身内はわなないた。 堪りかねて婆さんは、鼻に向って屹と居・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・が彼は思いもかけず自分の前途に一道の光明を望みえたような軽い気持になって、汽車の進むにしたがって、田圃や山々にまだ雪の厚く残っているほの白い窓外を眺めていた。「光の中を歩め」の中の人々の心持や生活が、類いもなく懐しく慕わしいものに思われた。・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ 心の弱い者が悪事を働いた時の常として、何かの言訳を自分が作らねば承知の出来ないが如く、自分は右の遺失た人の住所姓名が解るや直ぐと見事な言訳を自分で作って、そして殆ど一道の光明を得たかのように喜こんだ。 一先拝借! 一先拝借して自分・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・あの嗚咽する琵琶の音が巷の軒から軒へと漂うて勇ましげな売り声や、かしましい鉄砧の音と雑ざって、別に一道の清泉が濁波の間を潜って流れるようなのを聞いていると、うれしそうな、浮き浮きした、おもしろそうな、忙しそうな顔つきをしている巷の人々の心の・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・ モーリスの出現によって陰気なシャトーの空気の中に急に一道の明るい光のさし込むのを象徴するように、「ミミーの歌」の一連の連続が插入されてインターリュードの形をなしている。むつかしやの苦虫の公爵が寝床の中でこの歌を始める。これがヴァレンテ・・・ 寺田寅彦 「音楽的映画としての「ラヴ・ミ・トゥナイト」」
・・・コーヒー茶わんの縁がまさにくちびると相触れようとする瞬間にぱっと頭の中に一道の光が流れ込むような気がすると同時に、やすやすと解決の手掛かりを思いつくことがしばしばあるようである。 こういう現象はもしやコーヒー中毒の症状ではないかと思って・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・仮りに科学的に信憑すべき根拠よりして、来る六十年ないし七十年間に某火山系に活動を予期し得るとせば、個人に対してはともかく、一県一道の為政者にとりては多大の参考となるべし。 予報者と被予報者との意志の疎通せざる手近き原因は、予報の指定する・・・ 寺田寅彦 「自然現象の予報」
・・・ こういうふうに考えてくると流涕して泣くという動作には常に最も不快不安な緊張の絶頂からの解放という、消極的ではあるがとにかく一種の快感が伴なっていて、それが一道の暗流のように感情の底層を流れているように思われる。 うれしい事は、うれ・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・船橋の探照燈は希薄な沈黙した靄の中に一道の銀のような光を投げて、船はきわめて静かに進んでいた。つい数日前までは低く見えていた北極星が、いつのまにか、もう見上げるように高くなっていた。 スエズで買ったそろいのトルコ帽をかぶったジェルサレム・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・私はその時なんという事なしに矛盾不調和を感ずる一方では、またつめたい薄暗い岩室の中にそよそよと一陣の春風が吹き、一道の日光がさし込んだような心持ちもあった事を自白しなければならない。 吹き込みが終わった文学士は額の汗を押しぬぐいながらそ・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
出典:青空文庫