・・・ふと相手に気がついて見ると、恵蓮はいつか窓際に行って、丁度明いていた硝子窓から、寂しい往来を眺めているのです。「何を見ているんだえ?」 恵蓮は愈色を失って、もう一度婆さんの顔を見上げました。「よし、よし、そう私を莫迦にするんなら・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ 丁度昼少し過ぎで、上天気で、空には雲一つありませんでした。昼間でも草の中にはもう虫の音がしていましたが、それでも砂は熱くって、裸足だと時々草の上に駈け上らなければいられないほどでした。Mはタオルを頭からかぶってどんどん飛んで行きました・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・十五人の男の歩く足音は、穹窿になっている廊下に反響を呼び起して、丁度大きな鉛の弾丸か何かを蒔き散らすようである。 処刑をする広間はもうすっかり明るくなっている。格子のある高い窓から、灰色の朝の明りが冷たい床の上に落ちている。一間は這入っ・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 或る料理屋の女将が、小間物屋がばらふの櫛を売りに来た時、丁度半纏を着て居た。それで左手を支いて、くの字なりになって、右手を斜に高く挙げて、ばらふの櫛を取って、透かして見た。その容姿は似つかわしくて、何ともいえなかったが、また其の櫛の色・・・ 泉鏡花 「白い下地」
・・・西日をよけた番神堂の裏に丁度腰掛茶屋に外の人も居ず、三人は緩り腰を掛けて海を眺めた。風が変ってか海が晴れてくる。佐渡が島が鮮かに見えてきた。佐渡が見えると海全面の景色が皆活きてくる。白帆が三つ東に向って行く。動かない漁舟、漕ぐ手も見ゆる帰り・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・不断も加賀染の模様のいいのなんか着せていろいろ身ぎれいにしてやるので誰云うともなく美人問屋と云ってその娘を見ようと前に立つ人はたえた事がない、丁度年頃なのであっちこっちからのぞみに母親もこの返事に迷惑して申しのべし、「手前よろしければかねて・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・大抵は悪紙に描きなぐった泥画であるゆえ、田舎のお大尽や成金やお大名の座敷の床の間を飾るには不向きであるが、悪紙悪墨の中に燦めく奔放無礙の稀有の健腕が金屏風や錦襴表装のピカピカ光った画を睥睨威圧するは、丁度墨染の麻の衣の禅匠が役者のような緋の・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・道で見た二三本の立木は、大きく、不細工に、この陰気な平地に聳えている。丁度森が歩哨を出して、それを引っ込めるのを忘れたように見える。そこここに、低い、片羽のような、病気らしい灌木が伸びようとして伸びずにいる。 二人の女は黙って並んで歩い・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ 丁度、絵画に於ける色彩派が使うような色で描き現わすのである。よしんば、その色は彼のモネーなぞの使った眼を奪うような赤とか、紫とか、青とかあらゆる光線に反射するようなぎらぎらした眼の廻るような色彩のみでなくとも、極く単調な灰色とか、或は・・・ 小川未明 「動く絵と新しき夢幻」
・・・して考えてみると、時は既に真夜半のことであるから、四隣はシーンとしているので、益々物凄い、私は最早苦しさと、恐ろしさとに堪えかねて、跳起きようとしたが、躯一躰が嘛痺れたようになって、起きる力も出ない、丁度十五分ばかりの間というものは、この苦・・・ 小山内薫 「女の膝」
出典:青空文庫