・・・鐘声遠く夜は更けたり。万籟天地声なき時、門の戸を幽に叩きて、「通ちゃん、通ちゃん。」 と二声呼ぶ。 お通はその声を聞くや否や、弾械のごとく飛起きて、屹と片膝を立てたりしが、伝内の眼に遮られて、答うることを得せざりき。 戸外に・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・それよりも更と不思議なは、忽然として万籟死して鯨波もしなければ、銃声も聞えず、音という音は皆消失せて、唯何やら前面が蒼いと思たのは、大方空であったのだろう。頓て其蒼いのも朦朧となって了った…… どうも変さな、何でも伏臥になって居るら・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・汝今日の狂喜は他日汝の裏に熟して荘重深沈なる歓と化し汝の心はまさにしき千象の宮、静かなる万籟の殿たるべし。 ああ果たしてしからんか、あるいは孤独、あるいは畏懼、あるいは苦痛、あるいは悲哀にして汝を悩まさん時、汝はまさにわがこの言を憶うべ・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・星一つ一つ梢に下り、梢の露一つ一つ空に帰らんとす。万籟寂として声なく、ただ詩人が庭の煙のみいよいよ高くのぼれり。 天に年わかき男星女星ありて、相隔つる遠けれど恋路は千万里も一里とて、このふたりいつしか深き愛の夢に入り、夜々の楽しき時を地・・・ 国木田独歩 「星」
出典:青空文庫