・・・おぎんは井戸端の無花果のかげに、大きい三日月を仰ぎながら、しばしば熱心に祈祷を凝らした。この垂れ髪の童女の祈祷は、こう云う簡単なものなのである。「憐みのおん母、おん身におん礼をなし奉る。流人となれるえわの子供、おん身に叫びをなし奉る。あ・・・ 芥川竜之介 「おぎん」
・・・時刻はもう日の暮に近い頃であろう。三日月は右手の家々の空にかすかに光りを放っている。その三日月も、家々も、家々の窓の薔薇の花も、ひっそりと湛えた水の上へ鮮かに影を落している。人影は勿論、見渡したところ鴎一羽浮んでいない。水はただ突当りの橋の・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・空にはカフェの屋根のはずれに、三日月もそろそろ光り出しています。「おじさん。おじさん。おじさんと云えば!」 子犬は悲しそうに鼻を鳴らしました。「じゃ名前だけ聞かして下さい。僕の名前はナポレオンと云うのです。ナポちゃんだのナポ公だ・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・勿論彼はその時も、洛陽の西の門の下に、ほそぼそと霞を破っている三日月の光を眺めながら、ぼんやり佇んでいたのです。「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしようかと思っているのです」「そうか。それは可哀そうだな。ではおれが好いことを・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・「桃色の三日月様のように。」 と言った。 松島の沿道の、雨晴れの雲を豆府に、陽炎を油揚に見物したという、外道俳人、小県の目にも、これを仰いだ目に疑いはない。薙刀の鋭き刃のように、たとえば片鎌の月のように、銀光を帯び、水紅の羅して・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・ よし、眉の姿ただ一枚でも、秦宗吉の胸は、夢に三日月を呑んだように、きらりと尊く輝いて、時めいて躍ったのである。 ――お千と言った、その女は、実に宗吉が十七の年紀の生命の親である。―― しかも場所は、面前彼処に望む、神田明神の春・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・毎月三日月様になりますと私のところへ参って「ドウゾ旦那さまお銭を六厘」という。「何に使うか」というと、黙っている。「何でもよいから」という。やると豆腐を買ってきまして、三日月様に豆腐を供える。後で聞いてみると「旦那さまのために三日月様に祈っ・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・室内の鈍い光線も八つ手の葉に遮ぎられて、高須の顔は、三日月の光を受けたくらいに、幽かに輪廓が分明して、眼の下や、両頬に、真黒い陰影がわだかまり、げっそり痩せて、おそろしく老けて見えて、数枝も、話ながら、時おり、ちらと高須の顔を横目で見ては、・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・枯れた樹の梢に三日月のかかっているのを見ることもある。 やがて日の長くなることが、やや際立って知られる暮れがた。昼は既に尽きながら、まだ夜にはなりきらない頃、読むことにも書くことにも倦み果てて、これから燈火のつく夜になっても、何をしよう・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・爪の裏が垢で薄黒く三日月形に見える。同時に胃嚢が運動を停止して、雨に逢った鹿皮を天日で乾し堅めたように腹の中が窮窟になる。犬が吠えれば善いと思う。吠えているうちは厭でも、厭な度合が分る。こう静かになっては、どんな厭な事が背後に起りつつあるの・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
出典:青空文庫