・・・「何を見て上げるんですえ?」 婆さんは益疑わしそうに、日本人の容子を窺っていました。「私の主人の御嬢さんが、去年の春行方知れずになった。それを一つ見て貰いたいんだが、――」 日本人は一句一句、力を入れて言うのです。「私の・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・腰から上をのめるように前に出して、両手をまたその前に突出して泳ぐような恰好をしながら歩こうとしたのですが、何しろひきがひどいので、足を上げることも前にやることも思うようには出来ません。私たちはまるで夢の中で怖い奴に追いかけられている時のよう・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・一例を挙げるならば、近き過去において自然主義者から攻撃を享けた享楽主義と観照論当時の自然主義との間に、一方がやや贅沢で他方がややつつましやかだという以外に、どれだけの間隔があるだろうか。新浪漫主義を唱える人と主観の苦悶を説く自然主義者との心・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・ と一人の女が金切声を揚げると、「水がある!」 と言うなりに、こめかみの処へ頭痛膏を貼った顔を掉って、年増が真先に飛込むと、たちまち、崩れたように列が乱れて、ばらばらと女連が茶店へ駆寄る。 ちょっと立どまって、大爺と口を利い・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 隣から三人、家のものが五人、都合八人だが、兄は稲を揚げる方へ回るから刈り手は七人、一人で五百把ずつ刈れば三千五百刈れるはずだけれど、省作とおはまはまだ一人前は刈れない。二人は四百把ずつ刈れと言い渡される。省作は六尺大の男がおはまと組む・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・加うるに艶妻が祟をなして二人の娘を挙げると間もなく歿したが、若い美くしい寡婦は賢にして能く婦道を守って淡島屋の暖簾を傷つけなかった。六 川越の農家の子――椿岳及び伊藤八兵衛 爰に川越在の小ヶ谷村に内田という豪農があった。その・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ しかし、どこからともなく、だれが、お宮に上げるものか、たびたび、赤いろうそくがともりました。昔は、このお宮にあがった絵の描いたろうそくの燃えさしさえ持っていれば、けっして、海の上では災難にはかからなかったものが、今度は、赤いろうそくを・・・ 小川未明 「赤いろうそくと人魚」
・・・海から吹き揚げる風が肌寒い。 こうなると、人間というものは妙に引け身になるもので、いつまでも一所にいると、何だか人に怪まれそうで気が尤める。で、私は見たくもない寺や社や、名ある建物などあちこち見て廻ったが、そのうちに足は疲れる。それに大・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・「顔も洗わずに結婚式を挙げるのは、君ぐらいのものだ。まアいい。さア行こう」 と、手を取ると、「一寸待ってくれ。これから中央局へ廻ってこの原稿を速達にして来なくっちゃ、間に合わんのだ」「原稿も原稿だが、式も間に合わないよ」・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・田舎者の物だというんで変なけちをつけて、安く捲き上げるつもりかなんかしれやしないからね。……真物かもしれないぜ」「いやどうもこの崋山はだめらしい。僕も毎日こうやってちょいちょい掛けてみてると、こいつは怪しいというような奴はだんだん襤褸が・・・ 葛西善蔵 「贋物」
出典:青空文庫