・・・ 顔を洗いに出ている間に、女中が手早く蚊を畳んで床を上げている。そこを通り抜けて、唐紙を開けると、居間である。 机が二つ九十度の角を形づくるように据えて、その前に座布団が鋪いてある。そこへ据わって、マッチを擦って、朝日を一本飲む。・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・あなたに宅の主人をお目に掛けて、あなたの恋をさましてお上げ申したのですわ。 男。それがなんになるのですか。 女。それはわたくし悲劇が嫌だからでございますの。ちょうどいい時節が来たので、手紙を落します。するとあなたが段々わたくしに構わ・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
・・・この体に旅人も首を傾けて見ていたが、やがて年を取ッた方がしずかに幕を取り上げて紋どころをよく見るとこれは実に間違いなく足利の物なので思わずも雀躍した,「見なされ。これは足利の定紋じゃ。はて心地よいわ」と言われて若いのもうなずいて、「・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・ 灸は婦人を見上げたまま少し顔を赧くして背を欄干につけた。「あの子、まだ起きないの?」「もう直ぐ起きますよ。起きたら遊んでやって下さいな。いい子ね、坊ちゃんは。」 灸は障子が閉まると黙って下へ降りた。母は竈の前で青い野菜を洗・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・ この時相手は初めて顔を上げた。「小説家でおいでなさるのですか。デネマルクの詩人は多くこの土地へ見えますよ。」「小説なんと云うものを読むかね。」 エルリングは頭を振った。「冬になると、随分本を読みます。だが小説は読みません。若い・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・妻も眼を上げて黙って私を見ました。その眼の内には一撃に私を打ち砕き私を恥じさせるある物がありました、――私の欠点を最もよく知って、しかも私を自分以上に愛している彼女の眼には。 私はすぐ口をつぐみました。後悔がひどく心を噛み始めました。人・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫