・・・ としみじみいうのを、呆れた顔して、聞き澄ました、奴は上唇を舌で甞め、眦を下げて哄々とふき出し。「馬鹿あ、馬鹿あいわねえもんだ。へ、へ、へ、魚が、魚が人間を釣りに来てどうするだ。尾で立ってちょこちょこ歩行いて、鰭で棹を持つのかよ、よ・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・凍傷で足の趾が腐って落ちた者がある。上唇を弾丸で横にかすり取られた者がある。頭に十文字に繃帯をして片方のちぎれかけた耳朶をとめている者がある。 唇をやられた男は、冷えた練乳と、ゆるい七分粥を火でも呑むように、おず/\口を動かさずに、食道・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ひげもじゃの顎と、上唇をあつかましい笑いにほころばせながら。「これゃ、この娘も、すぐ、あのひげの顎に喰われるぞ。」 井村は、何故となく考えた。それから、彼のむほん気が、むら/\と動いて来た。それまでは、彼はたゞ一本のみずみずしい青葉・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・低く小さい、鼻よりも、上唇一、二センチ高く腫れあがり、別段、お岩様を気にかけず、昨夜と同じに熟睡うまそう、寝顔つくづく見れば、まごうかたなき善人、ひるやかましき、これも仏性の愚妻の一人であった。 山上通信太宰治 ・・・ 太宰治 「創生記」
・・・鼻は尋常で、唇は少し厚く、笑うと上唇がきゅっとまくれあがる。野性のものの感じである。髪は、うしろにたばねて、毛は少いほうの様である。ふたりの老人にさしはさまれて、無心らしく、しゃがんでいる。私が永いことそのからだを直視していても、平気である・・・ 太宰治 「美少女」
・・・纈り腮をわざと突き出したほど上を仰き、左の牙歯が上唇を噛んでいるので、高い美しい鼻は高慢らしくも見える。懐手をして肩を揺すッて、昨日あたりの島田髷をがくりがくりとうなずかせ、今月一日に更衣をしたばかりの裲襠の裾に廊下を拭わせ、大跨にしかも急・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫