うえすぎうじのり【上杉氏憲】
⇒上杉禅秀 (うえすぎぜんしゅう)
うえすぎかげかつ【上杉景勝】
[1556〜1623]安土桃山時代の武将。上杉謙信の養子。豊臣秀吉に仕え、会津若松120万石の領主、五大老の一人となった。関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れ、出羽米沢30万石に移封。
うえすぎけんしん【上杉謙信】
[1530〜1578]戦国時代の武将。越後守護代長尾為景 (ながおためかげ) の子。初め景虎 (かげとら) ・政虎、のち輝虎。永禄4年(1561)上杉憲政 (のりまさ) から譲られて関東管領となり、上杉氏を名のった。謙信は法名。北条氏康 (ほうじょううじやす) と争っての小田原攻め、武田信玄との川中島の戦いなどを経て織田信長と対立したが、業半ばで病死。
うえすぎさだまさ【上杉定正】
[1443〜1494]室町中期の武将。扇ヶ谷 (おうぎがやつ) 上杉持朝 (もちとも) の子。太田道灌 (おおたどうかん) に補佐されて兵威を振るったが、上杉顕定 (あきさだ) の中傷を信じて道灌を暗殺。のち顕定との戦いの陣中で死亡。
うえすぎしんきち【上杉慎吉】
[1878〜1929]憲法学者。福井の生まれ。東大教授。君権絶対主義を唱え、天皇機関説の美濃部達吉と論争。のち、右翼団体を指導。著「新稿憲法述義」など。
うえすぎぜんしゅう【上杉禅秀】
[?〜1417]室町前期の武将。関東管領。本名、氏憲 (うじのり) 。禅秀は法名。応永23年(1416)鎌倉公方 (くぼう) 足利持氏 (あしかがもちうじ) にそむき、敗れて自殺(上杉禅秀の乱)。
うえすぎのりあき【上杉憲顕】
[1306〜1368]南北朝時代の武将。関東管領、伊豆・上野・越後守護。山内上杉氏の祖。観応 (かんのう) の擾乱 (じょうらん) で足利直義に与して高師冬 (こうのもろふゆ) を亡ぼすが、足利尊氏と戦って敗れた。
うえすぎのりざね【上杉憲実】
[1410〜1466]室町中期の武将。関東管領。将軍足利義教 (あしかがよしのり) と鎌倉公方足利持氏の調停に努力したが、持氏と不和となった。永享の乱で持氏が死んだのち伊豆の国清寺で出家、諸国を行脚した。学芸を好み、足利学校を再興。
うえすぎのりまさ【上杉憲政】
[?〜1579]戦国時代の武将。関東管領。北条氏康に攻められて長尾景虎(上杉謙信)を頼り、上杉の姓と関東管領職を景虎に譲った。
うえすぎようざん【上杉鷹山】
[1751〜1822]江戸中期の米沢藩主。日向 (ひゅうが) 高鍋 (たかなべ) 藩主秋月種美の二男。上杉重定の養子。名は治憲 (はるのり) 。倹約・殖産興業政策などで、藩政改革に努めた。