・・・ただその中で聊か滑稽の観があったのは、読みかけた太平記を前に置いて、眼鏡をかけたまま、居眠りをしていた堀部弥兵衛が、眼をさますが早いか、慌ててその眼鏡をはずして、丁寧に頭を下げた容子である。これにはさすがな間喜兵衛も、よくよく可笑しかったも・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・彼らはいずれも、古手拭と煙草道具と背負い繩とを腰にぶら下げていた。短い日が存分西に廻って、彼の周囲には、荒くれた北海道の山の中の匂いだけがただよっていた。 監督を先頭に、父から彼、彼から小作人たちが一列になって、鉄道線路を黙りながら歩い・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 奴は嬉しそうに目を下げて、「へへ、何、ねえだよ、気の毒な事はちっともねえだよ。嫁さんが食べる方が、己が自分で食べるより旨いんだからな。」「あんなことをいうんだよ。」 と女房は顔を上げて莞爾と、「何て情があるんだろう。」・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 幸に家族の者が逃げる時に消し忘れたものらしく、ランプが点して釣り下げてあった。天井高く釣下げたランプの尻にほとんど水がついておった。床の上に昇って水は乳まであった。醤油樽、炭俵、下駄箱、上げ板、薪、雑多な木屑等有ると有るものが浮いてい・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・と、僕はわざとらしくあたまを下げた。「まア、それで、あたい気がすんだ、わ」 吉弥はお貞を見て、勝利がおに扇子を使った。「全体、まア」と、はじめから怪幻な様子をしていたお貞が、「どうしたことよ、出し抜けになぞ見たようで?」・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・受附の店員は代る/″\に頭を下げていた。丁度印刷が出来て来た答礼の葉書の上書きを五人の店員が精々と書いていた。其間に広告屋が来る。呉服屋が来る。家具屋が来る。瓦斯会社が来る。交換局が来る。保険会社が来る。麦酒の箱が積まれる。薦被りが転がり込・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
・・・ 手に、ケースを下げて、不案内の狭苦しい町の中へはいりました。道も、屋根も、一面雪におおわれていました。寒い風が、つじに立っている街燈をかすめて、どこからか、枯れたささの葉の鳴る音などが耳にはいりました。 どちらへ曲がったらいいかわ・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・ 私は言われるままに、土のついた日和下駄を片手に下げながら、グラグラする猿階子を縋るようにして登った。二 二階は六畳敷ばかりの二間で、仕切を取払った真中の柱に、油壷のブリキでできた五分心のランプが一つ、火屋の燻ったままぼ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・んできたが、見れば俺も老けたがお前ももうあまり若いといえんな、そうかもう三十七かと、さすが落語家らしい口調で言って、そして秋山さんの方を向いて、伜の命を助けてくだすったのはあなたでしたかと、真白な頭を下げた。すると、秋山さんは、いや助けても・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 元来、猫は兎のように耳で吊り下げられても、そう痛がらない。引っ張るということに対しては、猫の耳は奇妙な構造を持っている。というのは、一度引っ張られて破れたような痕跡が、どの猫の耳にもあるのである。その破れた箇所には、また巧妙な補片が当・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
出典:青空文庫