・・・これはいつでもアグニの神が、空から降りて来る時に、きっと聞える声なのです。 もうこうなってはいくら我慢しても、睡らずにいることは出来ません。現に目の前の香炉の火や、印度人の婆さんの姿でさえ、気味の悪い夢が薄れるように、見る見る消え失せて・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ それにしても友達のMは何所に行ってしまったのだろうと思って、私は若者のそばに立ちながらあたりを見廻すと、遥かな砂山の所をお婆様を助けながら駈け下りて来るのでした。妹は早くもそれを見付けてそっちに行こうとしているのだとわかりました。・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・そして最後の一瞥を例の眠たげな、鼠色の娘の目にくれて置いて、灰色の朝霧の立ち籠めている、湿った停車場の敷石の上に降りた。 * * *「もう五分で六時だ。さあ、時間だ。」検事はこ・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・――秋の彼岸過ぎ三時下りの、西日が薄曇った時であった。この秋の空ながら、まだ降りそうではない。桜山の背後に、薄黒い雲は流れたが、玄武寺の峰は浅葱色に晴れ渡って、石を伐り出した岩の膚が、中空に蒼白く、底に光を帯びて、月を宿していそうに見えた。・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ 宵から降り出した大雨は、夜一夜を降り通した。豪雨だ……そのすさまじき豪雨の音、そうしてあらゆる方面に落ち激つ水の音、ひたすら事なかれと祈る人の心を、有る限りの音声をもって脅すかのごとく、豪雨は夜を徹して鳴り通した。 少しも眠れなか・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・細君は急いで下りて行った。「あれやさかい厭になってしまう。親子四人の為めに僅かの給料で毎日々々こき使われ、帰って晩酌でも一杯思う時は、半分小児の守りや。養子の身はつらいものや、なア。月末の払いが不足する時などは、借金をするんも胸くそ悪し・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ 向島の言問の手前を堤下に下りて、牛の御前の鳥居前を小半丁も行くと左手に少し引込んで黄蘗の禅寺がある。牛島の弘福寺といえば鉄牛禅師の開基であって、白金の瑞聖寺と聯んで江戸に二つしかない黄蘗風の仏殿として江戸時代から著名であった。この向島・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ ふたりは、丘を下りかけていました。水のような空に、葉のない小枝が、美しく差し交じっていました。「私が帰ったら、お休みにきっといらっしゃいね。」と、先生がおっしゃいました。 年子は、あちらの、水色の空の下の、だいだい色に見えてな・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・ 上さんはそのまま下駄を持って階下へ降りて行った。たかが屋根代の六銭にしても、まさか穿懸けの日和下駄が用立とうとは思いも懸けなかったが、私はそれでホッと安心してじき睡ついた。三 翌朝私が目を覚した時には、周囲の者はいずれ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ すると、投げ上げた網の上の方で鉤か何かに引っかかりでもしたように、もう下へ降りて来ないのです。それどころではありません。爺さんが綱の玉を段々にほごすと、綱はするするするするとだんだん空の方へ、手ぐられでもするように、上がって行くのです・・・ 小山内薫 「梨の実」
出典:青空文庫