・・・丁度三月の下旬で、もうそろそろ清水の一重桜が咲きそうな――と云っても、まだ霙まじりの雨がふる、ある寒さのきびしい夜の事である。当時大学の学生だった本間さんは、午後九時何分かに京都を発した急行の上り列車の食堂で、白葡萄酒のコップを前にしながら・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・候 四月下旬のはじめ、午後。――第一場場面。一方八重の遅桜、三本ばかり咲満ちたる中に、よろず屋の店見ゆ。鎖したる硝子戸に、綿、紙、反もの類。生椎茸あり。起癈散、清暑水など、いろいろに認む。一枚戸を開きた・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・秋の初め、そうだ八月の下旬、浜菊の咲いてる時であった。 お繁さんは東京の某女学校を卒業して、帰った間もなくで、東京なつかしの燃えてる時であったから、自然東京の客たる予に親しみ易い。一日岡村とお繁さんと予と三人番神堂に遊んだ。お繁さんは十・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・ 十一月の下旬だったが、Fは帰ってきて晩飯をすますとさっそくまた机に向って算術の復習にかかった。私は茶店の娘相手に晩酌の盃を嘗めていたが、今日の妻からの手紙でひどく気が滅入っていた。二女は麻疹も出たらしかった。彼女は八つになるのだが、私・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・ ちょうど三月の下旬にはいっていた。が乗客はまだいずれも雪国らしいぎょうさんな風姿をしている。藁沓を履いて、綿ネルの布切で首から頭から包んだり、綿の厚くはいった紺の雪袴を穿いたり――女も――していた。そして耕吉の落着先きを想わせ、また子・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ 下旬 月日。「突然のおたよりお許し下さい。私は、あなたと瓜二つだ。いや、私とあなた、この二人のみに非ず。青年の没個性、自己喪失は、いまの世紀の特徴と見受けられます。以下、必ず一読せられよ。刺し殺される日を待って・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・この雑誌の、八月上旬号、九月下旬号、十月下旬号の三冊を、私は編輯者から恵送せられたのであるが、一覧するに、この雑誌の読者は、すべてこれから「文学というもの」を試みたいと心うごき始めたばかりの人の様子なのである。そのような心の状態に在るとき、・・・ 太宰治 「困惑の弁」
・・・ ことし、十二月下旬の或る霧のふかい夜に、この橋のたもとで異人の女の子がたくさんの乞食の群からひとり離れて佇んでいた。花を売っていたのは此の女の子である。 三日ほどまえから、黄昏どきになると一束の花を持ってここへ電車でやって来て、東・・・ 太宰治 「葉」
・・・そのとしの十一月下旬、朝ふと眼を醒ますと、以前おなじ銀座のバアにつとめていた高野さちよが、しょんぼり枕もとに坐っていた。「ほかに、ないもの。」さちよは、冷い両手で、寝ている数枝の顔をぴたとはさんだ。 数枝には、何もかもわかった。・・・ 太宰治 「火の鳥」
一 ほととぎすの鳴き声 信州沓掛駅近くの星野温泉に七月中旬から下旬へかけて滞在していた間に毎日うるさいほどほととぎすの声を聞いた。ほぼ同じ時刻にほぼ同じ方面からほぼ同じ方向に向けて飛びながら鳴くことがしばし・・・ 寺田寅彦 「疑問と空想」
出典:青空文庫