・・・島木さんは談の某君に及ぶや、苦笑と一しょに「下司ですなあ」と言った。それは「下」の字に力を入れた、頗る特色のある言いかただった。僕は某君には会ったことは勿論、某君の作品も読んだことはない。しかし島木さんにこう言われると、忽ち下司らしい気がし・・・ 芥川竜之介 「島木赤彦氏」
・・・深草の少将の百夜通いと云えば、下司の子供でも知っているはずです。それをあなたは嘘とも思わずに、……あの人の代りにわたしの命を、……ひどい。ひどい。ひどい。 使 泣いてはいけません。泣くことは何もないのですよ。(背中から玉造の小町を下あな・・・ 芥川竜之介 「二人小町」
・・・二の烏 はて、下司な奴、同じ事を不思議な花が薫ると言え。三の烏 おお、蘭奢待、蘭奢待。一の烏 鈴ヶ森でも、この薫は、百年目に二三度だったな。二の烏 化鳥が、古い事を云う。三の烏 なぞと少い気でおると見える、はははは。・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・……で、恩人という、その恩に乗じ、情に附入るような、賤しい、浅ましい、卑劣な、下司な、無礼な思いが、どうしても心を離れないものですから、ひとり、自ら憚られたのでありました。 私は今、そこへ―― 五「ああ、あす・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・また、お貞が、僕の顔さえ見れば、吉弥の悪口をつくのは、あんな下司な女を僕があげこそすれ、まさか、関係しているとは思わなかったからでもあろうが、それにしては、知った以上、僕をも下司な者に見なすのは知れきっているから、行かない方がいいと思い定め・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 余り憚りなくいうと自然暗黒面を暴露するようになるが、緑雨は虚飾家といえば虚飾家だが黒斜子の紋附きを着て抱え俥を乗廻していた時代は貧乏咄をしていても気品を重んじていた。下司な所為は決して做なかった。何処の家の物でなければ喰えないなどと贅・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・沈毅な二葉亭の重々しい音声と、こうした真剣な話に伴うシンミリした気分とに極めて不調和な下司な女の軽い上調子が虫唾が走るほど堪らなく不愉快だった。 十二時近くこの白粉の女が来て、「最う臥せりますからお床を伸べましょうか、」といった。遅いと・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・嘘でなきゃあ誰も子供のころの話なんか聞くものかという気持だったから、自然相手の仁を見た下司っぽい語り口になったわけ、しかし、そんな語り口でしか私には自分をいたわる方法がなかったと、言えば言えないこともない。こんな風に語ったのです。「……・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・大谷さん、何ももう言いません、拝むから、これっきり来ないで下さい、と私が申しましても、大谷さんは、闇でもうけているくせに人並の口をきくな、僕はなんでも知っているぜ、と下司な脅迫がましい事など言いまして、またすぐ次の晩に平気な顔してまいります・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・なぜこんな余計な仮定をして平気でいるかというと、そこが人間の下司な了簡で、我々はただ生きたい生きたいとのみ考えている。生きさえすれば、どんな嘘でも吐く、どんな間違でも構わず遂行する、真にあさましいものどもでありますから、空間があるとしないと・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
出典:青空文庫