・・・幾千年の昔からこの春の音で打ちなだめられてきた上総下総の人には、ほとんど沈痛な性質を欠いている。秋の声を知らない人に沈痛な趣味のありようがない。秋の声は知らないでただ春の音ばかり知ってる両総の人の粋は温良の二字によって説明される。 省作・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 日蓮は一時難を避けて、下総中山の帰衣者富木氏の邸にあって、法華経を説いていた。 六 相つぐ法難 日蓮の闘志はひるまなかった。百日の後彼は再び鎌倉に帰って松葉ヶ谷の道場を再興し、前にもまして烈々とした気魄をもって・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ これは後に知ったことであるが、仮名垣魯文の門人であった野崎左文の地理書に委しく記載されているとおり、下総の国栗原郡勝鹿というところに瓊杵神という神が祀られ、その土地から甘酒のような泉が湧き、いかなる旱天にも涸れたことがないというのであ・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・今年下総葛飾の田園にわたくしは日ごとに烈しくなる風の響をききつつ光陰の早く去るのに驚いている。岡山にいたのは、その時には長いように思われていたが、実は百日に満たなかった。熱海の小春日和は明るい昼の夢のようであった。 一たび家を失ってより・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・清と云う下総生れの頬ペタの赤い下女が俎の上で糠味噌から出し立ての細根大根を切っている。「御早よう、何はどうだ」と聞くと驚いた顔をして、襷を半分はずしながら「へえ」と云う。へえでは埓があかん。構わず飛び上って、茶の間へつかつか這入り込む。見る・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・産後体の悪かった淑子は、隠家に来てから六箇月目に、十九で亡くなった。下総にいた夫には逢わずに死んだのである。 仲平は隠家に冬までいて、彦根藩の代々木邸に移った。これは左伝輯釈を彦根藩で出版してくれた縁故からである。翌年七十一で旧藩の桜田・・・ 森鴎外 「安井夫人」
出典:青空文庫