・・・ 二 ……一時間ばかりたった後、手拭を頭に巻きつけた僕等は海水帽に貸下駄を突っかけ、半町ほどある海へ泳ぎに行った。道は庭先をだらだら下りると、すぐに浜へつづいていた。「泳げるかな?」「きょうは少し寒いか・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・半之丞はこの独鈷の前にちゃんと着物を袖だたみにし、遺書は側の下駄の鼻緒に括りつけてあったと言うことです。何しろ死体は裸のまま、温泉の中に浮いていたのですから、若しその遺書でもなかったとすれば、恐らくは自殺かどうかさえわからずにしまったことで・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・かつ他日この悪道路が改善せられて市街が整頓するとともに、他の不必要な整頓――階級とか習慣とかいう死法則まで整頓するのかと思えば、予は一年に十足二十足の下駄をよけいに買わねばならぬとしても、未来永劫小樽の道路が日本一であってもらいたい。 ・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・カラカラと小刻に、女の通る下駄の音、屋敷町に響いたが、女中はまだ帰って来ない。「心細いのが通り越して、気が変になっていたんです。 じゃ、そんな、気味の悪い、物凄い、死神のさそうような、厭な濠端を、何の、お民さん。通らずともの事だけれ・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・醤油樽、炭俵、下駄箱、上げ板、薪、雑多な木屑等有ると有るものが浮いている。どろりとした汚い悪水が、身動きもせず、ひしひしと家一ぱいに這入っている。自分はなお一渡り奥の方まで一見しようと、ランプに手を掛けたら、どうかした拍子に火は消えてしまっ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・「お前は全体いくつだ?」「二十五」「うそだ、少くとも二十七だろう?」「じゃア、そうしておいて!」「お父さんはあるの?」「あります」「何をしている?」「下駄屋」「おッ母さんは?」「芸者の桂庵」「兄さ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・というは馬喰町の郡代屋敷へ訴訟に上る地方人の告訴状の代書もすれば相談対手にもなる、走り使いもすれば下駄も洗う、逗留客の屋外囲の用事は何でも引受ける重宝人であった。その頃訴訟のため度々上府した幸手の大百姓があって、或年財布を忘れて帰国したのを・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・私は古草鞋や古下駄の蹈返された土間に迷々していると、上さんがまた、「お上り。」「は。」と答えた機で、私はつと下駄を脱捨てて猿階子に取着こうとすると、「ああ穿物は持って上っておくれ。そこへ脱いどいて、失えても家じゃ知らんからね。」・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ある夜、暗い道を自分の淋しい下駄の音をききながら、歩いていると、いきなり暗がりに木犀の匂いが閃いた。私はなんということもなしに胸を温めた。雨あがりの道だった。 二、三日してアパートの部屋に、金木犀の一枝を生けて置いた。その匂いが私の孤独・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・歯のすり減った下駄のようになった日和を履いて、手の脂でべと/\に汚れた扇を持って、彼はひょろ高い屈った身体してテク/\と歩いて行った。それは細いだら/\の坂路の両側とも、石やコンクリートの塀を廻したお邸宅ばかし並んでいるような閑静な通りであ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
出典:青空文庫