・・・が、ふだんの彼なら、藤左衛門や忠左衛門と共に、笑ってすませる筈のこの事実が、その時の満足しきった彼の心には、ふと不快な種を蒔く事になった。これは恐らく、彼の満足が、暗々の裡に論理と背馳して、彼の行為とその結果のすべてとを肯定するほど、虫の好・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
江口は決して所謂快男児ではない。もっと複雑な、もっと陰影に富んだ性格の所有者だ。愛憎の動き方なぞも、一本気な所はあるが、その上にまだ殆病的な執拗さが潜んでいる。それは江口自身不快でなければ、近代的と云う語で形容しても好い。・・・ 芥川竜之介 「江口渙氏の事」
・・・いわば公私の区別とでもいうものをこれほど露骨にさらけ出して見せる父の気持ちを、彼はなぜか不快に思いながらも驚嘆せずにはいられなかった。 一行はまた歩きだした。それからは坂道はいくらもなくって、すぐに広々とした台地に出た。そこからずっとマ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・美しく着飾った女中が主人の部屋の襖をあけると、息気のつまるような強烈な不快な匂が彼れの鼻を強く襲った。そして部屋の中は夏のように暑かった。 板よりも固い畳の上には所々に獣の皮が敷きつめられていて、障子に近い大きな白熊の毛皮の上の盛上るよ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・たまたま以前私の書いた詩を読んだという人に逢って昔の話をされると、かつていっしょに放蕩をした友だちに昔の女の話をされると同じ種類の不快な感じが起った。生活の味いは、それだけ私を変化させた。「――新体詩人です」といって、私を釧路の新聞に伴れて・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・それもあとで聞いたので、小県がぞッとするまで、不思議に不快を感じたのも、赤い闖入者が、再び合掌して席へ着き、近々と顔を合せてからの事であった。樹から湧こうが、葉から降ろうが、四人の赤い子供を連れた、その意匠、右の趣向の、ちんどん屋……と奥筋・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ 伯父なる人は顧みて角燈の影を認むるより、直ちに不快なる音調を帯び、「巡査がどうした、おまえなんだか、うれしそうだな」 と女の顔を瞻れる、一眼盲いて片眼鋭し。女はギックリとしたる様なり。「ひどく寂しゅうございますから、もう一・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・近隣親族の徒が、この美しい寝顔の前で埋葬を議することを、痛く不快に感じた。自分もつまりはそれに従うのほかないのであってみれば、自分もやはり世間一流の人間に相違ないのだ。自分はこう考えて、浮かぶことのできない、とうてい出ずることのできない、深・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・と、僕は軽く答えたが、あまりに人を見くびった言い分を不快に感じた。 しかし、割合いにすれていない主人のことであるし、またその無愛嬌なしがみッ面は持ち前のことであるから、思ったままを言ったのだろうと推察してやれば、僕も多少正直な心になった・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・晩年変態生活を送った頃は年と共にいよいよ益々老熟して誰とでも如才なく交際し、初対面の人に対してすらも百年の友のように打解けて、苟にも不快の感を与えるような顔を決してしなかったそうだ。 が、この円転滑脱は天禀でもあったが、長い歳月に段々と・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
出典:青空文庫