・・・それが今不意に目の前へ、日の光りを透かした雲のような、あるいは猫柳の花のような銀鼠の姿を現したのである。彼は勿論「おや」と思った。お嬢さんも確かにその瞬間、保吉の顔を見たらしかった。と同時に保吉は思わずお嬢さんへお時儀をしてしまった。 ・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・仁右衛門は木の葉のように震えながらずかずかと近づくと、突然後ろからその右の耳のあたりを殴りつけた。不意を喰って倒れんばかりによろけた佐藤は、跡も見ずに耳を押えながら、猛獣の遠吠を聞いた兎のように、前に行く二、三人の方に一目散にかけ出してその・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・これはさ程痛かったためではないが、余り不意であったために泣いたのだ。さて百姓は蹣跚きながら我家に帰った。永い間女房を擲って居た。そうしてたった一週間前に買って遣った頭に被る新しい巾を引き裂いた。 それからこの犬は人間というものを信用しな・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・る、その目覚しさは……なぞと、町を歩行きながら、ちと手真似で話して、その神楽の中に、青いおかめ、黒いひょっとこの、扮装したのが、こてこてと飯粒をつけた大杓子、べたりと味噌を塗った太擂粉木で、踊り踊り、不意を襲って、あれ、きゃア、ワッと言う隙・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・「何にもいらねいっち事よ、朝っぱら不意に来た客に何がいるかい」 そういう所へ利助もきて挨拶した、よくまア伯父さん寄てくれました、今年は雨都合もよくて大分作物もえいようでなど簡単な挨拶にも実意が見える、人間は本気になると、親身の者をな・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
・・・ いろいろのことを思って、茫然としていましたからすは、不意に石が飛んできたので、びっくりして立ち上がりました。そして、木の枝に止まって下をながめますと、子供らは、なお自分を目がけて石を投げるのであります。 からすはしかたなく、その社・・・ 小川未明 「馬を殺したからす」
・・・ 私はあまりに不意なので肝を潰した。「本当ですか。」「本当とも、じつはね、こんな所にこんなに永く逗留するつもりじゃなかったんだが、君とも心安くなるし、ついこんなに永逗留をしてしまったわけさ、それでね、君に旅用だけでも遺してってあ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ そうすると、やがて不意に、大きな梨の実が落ちて来ました。それはそれは今までに見た事もないような大きな梨の実でした。西瓜ぐらい大きな梨の実でした。 すると、爺さんはニコニコしながら、それを拾って、自分の直ぐ側に立っている見物の一人に・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・ 男は口笛を吹いていたが、不意に襖ごしに声をかけて来た。「どないだ? 退屈でっしゃろ。飯が来るまで、遊びに来やはれしまへんか」「はあ、ありがとう」 咽喉にひっ掛った返事をした。二、三度咳ばらいして、そのまま坐っていた。なんだ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ 不意に橋の上に味方の騎兵が顕れた。藍色の軍服や、赤い筋や、鎗の穂先が煌々と、一隊挙って五十騎ばかり。隊前には黒髯を怒らした一士官が逸物に跨って進み行く。残らず橋を渡るや否や、士官は馬上ながら急に後を捻向いて、大声に「駈足イ!」・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
出典:青空文庫