・・・ぼんやりした燈りを睡むそうに提げている百噸あまりの汽船のともの方から、見えない声が不明瞭になにか答えている。それは重々しいバスである。「いないのかよう。××さんは」 それはこの港に船の男を相手に媚を売っている女らしく思える。私はその・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・こういう場合、派手というのは、残酷の同意語であった。不明瞭な点を残さず、悉くそれを赤ときめて、一掃してしまえば功績も一層水際立って司令部に認められる。 大隊長は、そのへんのこつをよくのみこんでいた。彼は先ず武器を押収することを命じた。そ・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・私の答弁は、狡猾の心から、こんなに煮え切らないのでは無くて、むしろ、卑屈の心から、こんなに、不明瞭になってしまうのである。皆、私より偉いような気がしているし、とにかく誰でも一生懸命、精一ぱいで生きているのが判っているし、私は何も言えなくなる・・・ 太宰治 「鴎」
・・・言語が聞き取れないために簡潔な筋のはこびが不明瞭になる場所のあるのは惜しい。 九 カルネラ対ベーア 拳闘というものはまだ一度も実見したことがない。ただ、時々映画で予期以外の付録として見せられることはあるが、今まで・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・これも一つのまじめな研究題目とすればなりうるであろうし、これを深く追究すれば、元来きわめて不明瞭な「摩擦」そのものの本性に関する諸問題に意外な曙光をもたらすようなことにならないとも限らない。従来はただ二つの物質間の摩擦係数さえ測定されればそ・・・ 寺田寅彦 「日常身辺の物理的諸問題」
・・・もうすこし不明瞭なのでは「かえるやら山陰伝う四十から」の次に「むねをからげる」があり、「だだくさ」の次に「いただく」があり、「いさぎよき」の次に「よき社」がありするのも同様である。こういう無意識の口移りは付け句には警戒されたのが三句目四句目・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・下山事件をみても、一ヵ月の間、検察庁は他殺か自殺か、わざと不明瞭にしたまま、ひっぱってきている。下山夫人が妻として良人の自殺を直感して、身辺の者にそのことを洩らしたという事実さえ今日まで公表させませんでした。夫人はどういう圧力に強要されたの・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・ わたしはその頃の日本のすべての人民の苦痛と精神も肉体も不具にされていた日の記念として、きょうではおかしく意味の不明瞭に書かれている文章のまま、傷ついている姿のまま、作品をのこしておく。愛する日本が、また再び作家にかたことを云わせるよう・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第五巻)」
・・・意志の不明瞭な林之助を、あきらめ切れないお絹の切な情が満ち溢れてこそ、最後の幕も引立ったのだが、肝心の処で見物を失笑させたのは惜しい。 勿論、宗十郎の林之助も甚だカサカサで、情味もなければ消極的な臆病さも充分出ていず、頻りにスースー息を・・・ 宮本百合子 「気むずかしやの見物」
・・・ 傍聴人が席についてしまうと、宮城裁判長が、鼻にかかった声で不明瞭に何か云いました。すると党員の中から一人の男のひとが立ち上り堂々と演説をはじめました。杉浦啓一でした、「この間の選挙のとき獄内で、立候補したひとよ」と○○○さんが教えてく・・・ 宮本百合子 「共産党公判を傍聴して」
出典:青空文庫