・・・ 黙って頷いた陳の顔には、その上今西に一言も、口を開かせない不機嫌さがあった。今西は冷かに目礼すると、一通の封書を残したまま、また前のように音もなく、戸の向うの部屋へ帰って行った。 戸が今西の後にしまった後、陳は灰皿に葉巻を捨てて、・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ 道命阿闍梨は、不機嫌らしく声をとがらせた。道祖神は、それにも気のつかない容子で、「されば、恵心の御房も、念仏読経四威儀を破る事なかれと仰せられた。翁の果報は、やがて御房の堕獄の悪趣と思召され、向後は……」「黙れ。」 阿闍梨・・・ 芥川竜之介 「道祖問答」
・・・すぐだ。」不機嫌な返事をして、神経の興奮を隠そうとしている。さて黒の上衣を着る。髯を綺麗に剃った顋の所の人と違っている顔が殊更に引き立って見える。食堂へ出て来る。 奥さんは遠慮らしく夫の顔を一寸見て、すぐに横を向いて、珈琲の支度が忙しい・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・とその御機嫌が大不機嫌。「先刻お勝手へ参りましただが、お澄さんが、まだ旦那方、御飯中で、失礼だと言わっしゃるものだで。」――「撃つぞ。出ろ。ここから一発はなしたろか。」と銃猟家が、怒りだちに立った時は、もう横雲がたなびいて、湖の面がほんのり・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・あばた面は、たいそう不機嫌な顔つきをして帰ってくると、少年に向かっていいました。「おまえのいうことを聞いて、ほんとうにしたばかりに大ばかをみてしまった。だれひとり、道を聞くものもなけりゃ、銭をくれるものも数えるほどしかなかった。分けまえ・・・ 小川未明 「石をのせた車」
・・・その日もまた頭痛だという姑の枕元へ挨拶に上ると、お定は不機嫌な唇で登勢の江州訛をただ嗤った。小姑の椙も嗤い、登勢のうすい耳はさすがに真赧になったが、しかしそれから三日もたつともう嗤われても、にこっとえくぼを見せた。 その三日の間もお定は・・・ 織田作之助 「螢」
・・・いそいそとした蝶子を見るなり「阿呆やな、お前の一言で何もかも滅茶苦茶や」不機嫌極まった。手切金云々の気持を言うと、「もろたら、わいのもらう金と二重取りでええがな。ちょっとは慾を出さんかいや」なるほどと思った。が、おきんの言葉はやはり胸の中に・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ が、べつに不機嫌だというわけではない。 むしろ機嫌のよい証拠には、両の頬に憎いほど魅力のあるえくぼが、ふっと泛んでいる。 だしぬけに泛んだ思いつきの甘さに自らしびれていたのだ。「おい、お前ら珈琲飲み度うないか」 豹吉は・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・原口の出て行った後で、笹川は不機嫌を曝けだした、罵るような調子で私に向ってきた。 私は恐縮してしまった。「いやけっしてその、そんな風に考えているというわけでもないのだがね……。それでやはり、原口君もいくらか借りてるというわけかね?」・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・彼は不機嫌に怒って、ぷりぷりしていた。十八貫もある、でっぷり肥った、髯のある男だ。彼の靴は、固い雪を蹴散らした。いっぱいに拡がった鼻の孔は、凍った空気をかみ殺すように吸いこみ、それから、その代りに、もうもうと蒸気を吐き出した。 彼は、屈・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
出典:青空文庫