・・・が、彼女はこの男を、――この無精髭を伸ばした男を軽蔑しない訣には行かなかった。同時にまた自然と彼の自由を羨まない訣にも行かなかった。この「食堂」を通り越した後はじきにしもた家ばかりになった。従ってあたりも暗くなりはじめた。たね子はこう云う夜・・・ 芥川竜之介 「たね子の憂鬱」
・・・ 無精髭を伸ばした妻の弟も寝床の上に起き直ったまま、いつもの通り遠慮勝ちに僕等の話に加わり出した。「強い中に弱いところもあるから。……」「おやおや、それは困りましたね」 僕はこう言った妻の母を見、苦笑しない訣には行かなかった・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・それからドモ又の弟にいうが、不精をしていると、頭の毛と髭とが延びてきて、ドモ又にあともどりする恐れがあるから、今後決して不精髭を生やさないことにしてくれ。とも子 そんなこと、私がさせときませんわ。戸外にて戸をたたく音聞こゆ。・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・ お前もおれも何思ったか無精髭を剃り、いつもより短く綺麗に散髪していた。お前の顔も散髪すると存外見られると思ったのは、実にこの時だ。 おれは変にうれしくなってしまい、「日本一の霊灸! 人ダスケ! どんな病気もなおして見せる。▽▽旅館・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・散髪の職人だというのに不精髭がぼうぼうと生え、そこだけが大人であった。商売道具の剃刀も売ってしまったのかと、金を渡すと、ニコニコして帰って行ったが、それから十日たったある夜更け、しょんぼりやって来た姿見ると、前よりもなお汚くなっていた。どう・・・ 織田作之助 「世相」
・・・番茶を一口すすって、「僕のこの不精髭を見て、幾日くらいたてばそんなに伸びるの? と聞くから、二日くらいでこんなになってしまうのだよ。ほら、じっとして見ていなさい。鬚がそよそよと伸びるのが肉眼でも判るほどだから、と真顔で教えたら、だまってしゃ・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・わたしたちの知ったとき、もう浅吉の木菟のようなふくらんだ頬っぺたには白く光る不精髭があったし、おゆきは、ばあやさんと呼ばれていた。「ねえ、おゆきばあや、あっさんは赤門にいるの」 縫物をしているおゆきのわきにころがって小さい女の子は質・・・ 宮本百合子 「菊人形」
・・・ぼってり太った、白い無精髭の生えた爺さん、この司書は体つきからして別人である。若い人は論外だし、もう一人いる人も、円いような顔の老人で、すっかり背中を丸め、机の下でこまかい昔の和綴じの字書の頁をめくっている。もうあの人もいなくなったのかもし・・・ 宮本百合子 「図書館」
出典:青空文庫