・・・影なれば果敢なき姿を鏡にのみ見て不足はなかろう。影ならずば?――時にはむらむらと起る一念に窓際に馳けよりて思うさま鏡の外なる世を見んと思い立つ事もある。シャロットの女の窓より眼を放つときはシャロットの女に呪いのかかる時である。シャロットの女・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 安岡は前夜の睡眠不足でひどく疲れていたので、自習をいいかげんに切り上げて早く床に入った。そして、妙な素振りをする深谷の来る前に眠っちまおうと決心した。「でなけりゃ、とてもやり切れない」 と思った。だが、そう思えば思うほど、なお・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・女子の方に適宜なれば男子の方は薬量の不足を感じ、男子に適量なりとすれば女子の服薬は適量にして必ず瞑眩せざるを得ず。女子は男子よりも親の教、忽にす可らず、気随ならしむ可らずとは、父母たる者は特に心を用いて女子の言行を取締め、之を温良恭謙に導く・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・そりゃ私の技倆が不足な故もあろうが、併しどんなに技倆が優れていたからって、真実の事は書ける筈がないよ。よし自分の頭には解っていても、それを口にし文にする時にはどうしても間違って来る、真実の事はなかなか出ない、髣髴として解るのは、各自の一生涯・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・国語の柔軟なる、冗長なるに飽きはてて簡勁なる、豪壮なる漢語もてわが不足を補いたり。先に其角一派が苦辛して失敗に終りし事業は蕪村によって容易に成就せられたり。衆人の攻撃も慮るところにあらず、美は簡単なりという古来の標準も棄てて顧みず、卓然とし・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・「なかなかいいようですが、少しかおりが不足ですな。」「雨の関係でしょうかな。」「そうです。しかしどうしてもアスパラガスには叶いませんな。」「へえ」「アスパラガスやちしゃのようなものが山野に自生するようにならないと産業もほ・・・ 宮沢賢治 「紫紺染について」
・・・全国に十万人も熟練工が不足を告げているという事実は、今日の大問題とされているのである。処々の大工場、実務学校などで熟練工の養成、再教育をしている中には、専門学校出の若い婦人を新たに機械工業のための製図師として再教育している実例もある。臨時工・・・ 宮本百合子 「新しい婦人の職場と任務」
・・・また三十になり、四十になると、智慧の不足が顔にあらわれて、昔美しかった人とは思われぬようになる。これとは反対に、顔貌には疵があっても、才人だと、交際しているうちに、その醜さが忘れられる。また年を取るにしたがって、才気が眉目をさえ美しくする。・・・ 森鴎外 「安井夫人」
・・・手前とこは株内や、株内が引きとるのに何の不足がある。」「お前こそ母屋やないか。母屋のなりして、株内へ廻すってことがあるかい。」「母屋や、阿呆たれよ、どこがどう母屋や。それを検べてから云うて来い。」「安次が母屋母屋云うてりゃ、それ・・・ 横光利一 「南北」
・・・いかに苦しんでも苦しみ足りるという事のないこの人生を、私はともすれば調子づいて軽々しく通って行く、そしてその凝視の不足は直ちに表現の力弱さとして私に報いて来るのである。私はもっとしっかりと大地を踏みしめて、あくまで浮かされることを恐れなくて・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫