・・・ そこは突き当りの硝子障子の外に、狭い中庭を透かせていた。中庭には太い冬青の樹が一本、手水鉢に臨んでいるだけだった。麻の掻巻をかけたお律は氷嚢を頭に載せたまま、あちら向きにじっと横になっていた。そのまた枕もとには看護婦が一人、膝の上にひ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・首尾よく、かちりと銜えてな、スポンと中庭を抜けたは可かったが、虹の目玉と云う件の代ものはどうだ、歯も立たぬ。や、堅いの候の。先祖以来、田螺を突つくに練えた口も、さて、がっくりと参ったわ。お庇で舌の根が弛んだ。癪だがよ、振放して素飛ばいたまで・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・……私が覚えてからも、むかし道中の茶屋旅籠のような、中庭を行抜けに、土間へ腰を掛けさせる天麩羅茶漬の店があった。――その坂を下りかかる片側に、坂なりに落込んだ空溝の広いのがあって、道には破朽ちた柵が結ってある。その空溝を隔てた、葎をそのまま・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・台所の薬鑵にぐらぐら沸ったのを、銀の湯沸に移して、塗盆で持って上って、中庭の青葉が、緑の霞に光って、さし込む裡に、いまの、その姿でしょう。――馴れない人だから、帯も、扱帯も、羽衣でもむしったように、ひき乱れて、それも男の手で脱がされたのが分・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・そして店の主人と一しょに、裏の陰気な中庭へ出た。その時女は、背後から拳銃を持って付いて来る主人と同じように、笑談らしく笑っているように努力した。 中庭の側には活版所がある。それで中庭に籠っている空気は鉛のがする。この辺の家の窓は、五味で・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ 道子がやっと女専を卒業して、大阪の喜美子のもとへ帰って来たのは、やがてアパートの中庭に桜の花が咲こうとする頃であった。「お姉さま、只今、お会いしたかったわ。」 三年の間に道子はすっかり東京言葉になっていた。喜美子はうれしさに胸・・・ 織田作之助 「旅への誘い」
・・・日の射さぬ中庭は乾いたためしはなかった。鼠の死骸はいつまでもジクジクしていた。近くの古池からはなにかいやな沼気が立ちのぼるかと思われた。一町先が晴れてもそこだけは降り、風は黒く渡り、板塀は崩れ、青いペンキが剥げちょろけになったその建物のなか・・・ 織田作之助 「道」
・・・』お絹にも話あり、いそいそと中庭から上がれば叔父の顔色ただならず、お絹もあらたまって『叔父さんただいま、自宅からもよろしくと申しました。』『用事は何であったね、縁談じゃアなかったか。』『そうでございました、難波へ嫁にゆけとい・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・石段を登りつめると、ある家の中庭らしい所へ出た。四方板べいで囲まれ、すみに用水おけが置いてある、板べいの一方は見越しに夏みかんの木らしく暗く茂ったのがその頂を出している、月の光はくっきりと地に印して寂として人のけはいもない。徳二郎はちょっと・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・ 午後二時ごろで、たいがいの客は実際不在であるから家内しんとしてきわめて静かである。中庭の青桐の若葉の影が拭きぬいた廊下に映ってぴかぴか光っている。 北の八番の唐紙をすっとあけると中に二人。一人は主人の大森亀之助。一人は正午前から来・・・ 国木田独歩 「疲労」
出典:青空文庫