・・・それで、新次が中耳炎になって一日じゅう泣いていた時など、浜子の眼から逃げ廻るようにしていた私は、氷を買いにやらされたのをいいことに、いつまでも境内の舞台に佇んでいた。すると提げていた氷が小さくなって縄から抜けて落ちた拍子に割れてしまった。驚・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・悪いお酒をたくさん飲んで、中耳炎を起したのです。お医者に見せましたけれども、もう手遅れだそうです。薬缶のお湯が、シュンシュン沸いている、あの音も聞えません。窓の外で、樹の枝が枯葉を散らしてゆれ動いておりますが、なんにも音が聞えません。もう、・・・ 太宰治 「水仙」
・・・風邪をひいたり、中耳炎を起したり、それが暗夜か。実に不可解であった。まるでこれは、れいの綴方教室、少年文学では無かろうか。それがいつのまにやら、ひさしを借りて、母屋に、無学のくせにてれもせず、でんとおさまってけろりとしている。 しかし私・・・ 太宰治 「如是我聞」
・・・保護室には看護卒をしたというかっ払いが二人いて看守に、「こりゃきっと中耳炎だね、あぶないですよ旦那放っといちゃ」などと云い、今野自身も医者に見せろと要求した。「貴様らァわるいこったら何でも知っていようが、医者のことまじゃ知るまい・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・一九三二年の文化団体に対する弾圧当時、駒込署に検挙され、拷問のビンタのために中耳炎を起し危篤におちいった。のち、地下活動中過労のため結核になって中野療養所で死去した。百合子の「小祝の一家」壺井栄「廊下」等は今野大力の一家の生活から取材されて・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・熱心なホーリネス信者となって、多分明治三十九年の秋ごろ帰朝したが、間もなく中耳炎を患い手術後の経過思わしくなくて没した。父と性格は大変に異っていた。一本気な、やや暗い、劇しい気質であった。私は暫時であったがこの伯父から非常に愛された。沢山の・・・ 宮本百合子 「中條精一郎の「家信抄」まえがきおよび註」
・・・ 彼が中耳炎を起したのは帰って半年立つか立たない時であった。 大学に入院して切開して貰ったのだけれ共、後から聞くと、自分は斯うやって死ぬ運命を与えられて居るのだから病院へ等入って、終るべき命を無理算段で延して置く事は望まないと云・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・明治三十九年頃かえって来て程なく中耳炎でなくなった。 若い嫂であった母を対手に、子供のための本を書くことを計画して、その思いつきは折から父が外国へ出かけていて留守中だった母をもかなり熱心に動かしたらしい。耳から頭へ大きく白く繃帯をかけた・・・ 宮本百合子 「本棚」
・・・五月号『働く婦人』編輯後記に短かく報道されていますが、中耳炎になった彼が警察から入院させられた済生会病院は、ブルジョア慈善病院らしくろくな手当てもしないばかりか、病がすすみもう生命が危いところまで行ったと知ると、責任を胡魔化すため「君は三日・・・ 宮本百合子 「ますます確りやりましょう」
出典:青空文庫