・・・二十日ばかり心臓を冷やしている間、仕方が無い程気分の悪い日と、また少し気分のよい日もあって、それが次第に楽になり、もう冷やす必要も無いと言うまでになりました。そして、時には手紙の三四通も書く事があり、又肩の凝らぬ読物もして居りました。 ・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・すると次は秘密のなかでもベッドシーンの秘密に興味を持ち出した。ところが、見たと思ったそれがどうやらちがうものらしくなって来た。しかしそのときの恍惚状態そのものが、結局すべてであるということがわかって来た。そうでしょう。いや、君、実際その恍惚・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・生の事に思し召され候わば大違いに候、妻のことに候、あの言葉少なき女が貞夫でき候て以来急に口数多く相成り近来はますますはげしく候、そしてそのおしゃべりの対手が貞夫というに至っては実に滑稽にござ候、先夜も次の間にて貞夫を相手に何かわからぬことを・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・ 次にある価値を実現せしめることが、それ自らには善でも悪でもないというカントの考えは、価値が平等であるときには正しいが、実質的価値には等級がある。したがって意欲の対象たる価値そのものに即した善悪が存在する。より高い価値を実現する行為はよ・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・老人の表情は、次第に黒くなった。眼尻の下った、平ぺったい顔、陋屋と阿片の臭い。彼は、今にも凋んだ唇を曲げて、黄色い歯糞のついた歯を露出して泣きだしそうだった。 左右の腕は、憲兵によって引きたてられてさきに行っている。が、胴体と脚は、斜に・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・と唄い終ったが、末の摘んで取ろの一句だけにはこちらの少年も声を合わせて弥次馬と出掛けたので、歌の主は吃驚してこちらを透かして視たらしく、やがて笑いを帯びた大きな声で、「源三さんだよ、憎らしい。」と誰に云ったのだか分らない・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・それから次の日にモウ一度読ませた。次の手紙が来る迄、その同じ手紙を何べんも読むことにした。 * とり入れの済んだ頃、母親とお安は面会に出てきた。母親は汽車の中で、始終手拭で片方の眼ばかりこすっていた。 何べんも間・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
子供らは古い時計のかかった茶の間に集まって、そこにある柱のそばへ各自の背丈を比べに行った。次郎の背の高くなったのにも驚く。家じゅうで、いちばん高い、あの子の頭はもう一寸四分ぐらいで鴨居にまで届きそうに見える。毎年の暮れに、・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・こういう次第で心内には一も確固不動の根柢が生じない。不平もある、反抗もある、冷笑もある、疑惑もある、絶望もある。それでなお思いきってこれを蹂躙する勇気はない。つまりぐずぐずとして一種の因襲力に引きずられて行く。これを考えると、自分らの実行生・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・ 次に舜典に徴するに、舜は下流社會の人、孝によりて遂に帝位を讓られしが、その事蹟たるや、制度、政治、巡狩、祭祀等、苟も人君が治民に關して成すべき一切の事業は殆どすべて舜の事蹟に附加せられ、且人道中最大なる孝道は、舜の特性として傳へらるゝ・・・ 白鳥庫吉 「『尚書』の高等批評」
出典:青空文庫