芥川さんに始めておめにかかったのは、大正六年の多分三月頃のことだったと思います。まだ私が羽織を着ていた憶えがあるから。久米さんと一緒に或る午後遊びに見えました。『新思潮』がまだ久米さん方によって編輯されていた時分で、その時・・・ 宮本百合子 「田端の坂」
・・・わずかに久米正雄、芥川龍之介などを知るだけで、自分が文壇の中へ入ろうとは思っていなかった。民族的滅亡に追いこまれているアイヌのことを書きたいと思って北海道へ行った。三月から八月まであっちこっちアイヌ村を歩いた。八月に父が札幌へ用事で・・・ 宮本百合子 「年譜」
一 大正五年頃、つまり私が最初に小説を発表した時代――ちょうど、久米正雄君や菊池君や芥川さんが『新思潮』からだんだん乗り出して行った時代で、文壇というものがまだハッキリ形を持っていた。それで自分の・・・ 宮本百合子 「文壇はどうなる」
六月下旬にパリで四日間に亙って開催された国際ペンクラブの第十五回大会に、有島生馬氏や井上勇氏、久米正雄氏などが出席したことが新聞に出ている。その議事日程の中、委員付託による四つの問題の検討がされている。世界文学に今日のスタ・・・ 宮本百合子 「ペンクラブのパリ大会」
・・・徳田秋声、菊池寛、久米正雄等の作家たちが、震災以来今日までの十五年間に生きて来た社会的な道すじ、及び今日それぞれの人々が占めているこの社会での在り場所というものを、自ら読者に考えさせる言外の暗示を少なからず含んでいるのである。 この座談・・・ 宮本百合子 「「迷いの末は」」
・・・菊池、久米、岡本、中村氏等と劇作家協会を創設。三十四歳の時である。 翌一九二一年。「坂崎出羽守」を発表。翌月市村座で初演。「嬰児殺し」有楽座で初演。 一九二二年。「女親」帝劇に於て初演。大倉喜八郎一夜帝劇を買切りし際、「女親」の一部・・・ 宮本百合子 「山本有三氏の境地」
出典:青空文庫