・・・母は筆に舌を搦んで、乏しい水を吸うようにした。「じゃまた上りますからね、御心配な事はちっともありませんよ。」 戸沢は鞄の始末をすると、母の方へこう大声に云った。それから看護婦を見返りながら、「じゃ十時頃にも一度、残りを注射して上・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ただそこに佇んだまま、乏しい虫の音に聞き入っていると、自然と涙が彼の頬へ、冷やかに流れ始めたのである。「房子。」 陳はほとんど呻くように、なつかしい妻の名前を呼んだ。 するとその途端である。高い二階の室の一つには、意外にも眩しい・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・瀬古 沢本は生蕃だけに芸術家として想像力に乏しいよ。僕が今ここにおはぎを出すから見てろ――じゃない聞いてろ。ともちゃんが家を出ようとすると、お母さんが「ともや、ここにこんなものが取ってあるから食べておいでな」といって、鼠入らずの中から・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・――諸君のまじめな研究は外国語の知識に乏しい私の羨やみかつ敬服するところではあるが、諸君はその研究から利益とともにある禍いを受けているようなことはないか。かりにもし、ドイツ人は飲料水の代りに麦酒を飲むそうだから我々もそうしようというようなこ・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・路には処々、葉の落ちた雑樹が、乏しい粗朶のごとく疎に散らかって見えた。「こういう時、こんな処へは岡沙魚というのが出て遊ぶ」 と渠は言った。「岡沙魚ってなんだろう」と私が聞いた。「陸に棲む沙魚なんです。蘆の根から這い上がって、・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ で、その石には腰も掛けず、草に蹲って、そして妙な事をする。……煙草を喫むのに、燐寸を摺った。が、燃さしの軸を、消えるのを待って、もとの箱に入れて、袂に蔵った。 乏しい様子が、燐寸ばかりも、等閑になし得ない道理は解めるが、焚残りの軸・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・アレだけの筆力も造詣もありながら割合に大作に乏しいのは畢竟芸術慾が風流心に禍いされたのであろう。椿岳を大ならしめたのも風流心であるが、小ならしめたのもまた風流心であった。 椿岳を応挙とか探幽とかいう巨匠と比較して芸術史上の位置を定めるは・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・しかし、乳が乏しいのでした。赤ん坊は、毎晩夜中になると乳をほしがります。いま、お母さんは、この夜中に起きて、火鉢で牛乳のびんをあたためています。そして、もう赤ちゃんがかれこれ、お乳をほしがる時分だと思っています。」「二人の子供はどんな夢・・・ 小川未明 「ある夜の星たちの話」
・・・眼だけは、文字の上に止っても、頭で他のことを空想するように、感ずる興味の乏しいものは、その書物と読む者の間が、畢竟、無関係に置かれるのを証する以外に、何ものでもありません。それであるから、所謂、良書なるものは、その人によって、定められるのが・・・ 小川未明 「書を愛して書を持たず」
・・・ ギラとは金、サクイとは乏しい。わざと隠語を使って断ると、そうですか、じゃ今度またと出て行った。 ほかの客に当らずに出て行った所を見ると、どうやら私だけが遊びたそうな顔をしていたのかと、苦笑していると、天辰の主人はふと声をひそめて、・・・ 織田作之助 「世相」
出典:青空文庫