・・・ 茶店を出ると、蝉の声を聴きながら私はケーブルの乗場へ歩いて行ったが、ちょこちょこと随いてくる父の老妻の皺くちゃの顔を見ながら、ふとこの婆さんに孝行してやろうと思った。そして、気がつくと、私は「今日も空には軽気球……」とぼそぼそ口ずさん・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 当時、安堂寺橋に巡航船の乗場があり、日本橋まで乗せて二銭五厘で客を呼んでいたが、お前はその乗場に頑張って、巡航船へ乗る客を、俥の方へ横取りしようと、金切声で呶鳴っていた。巡航船に赤い旗がついているのを見て、お前も薄汚れた俥にそれと似た・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・おげんは熊吉の案内で坂の下にある電車の乗場から新橋手前まで乗った。そこには直次が姉を待合せていた。直次は熊吉に代って、それから先は二番目の弟が案内した。 小石川の高台にある養生園がこうしたおげんを待っていた。最後の「隠れ家」を求めるつも・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・芝公園の中を抜けて電車の乗場のある赤羽橋の畔までも随いて来た。 お三輪も別れがたく思って、「いろいろお世話さま。来られるようだったら、また来ますよ。お力、待っていておくれよ」 それを聞くと、お力は精気の溢れた顔を伏せて、眼のふち・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・二人は乗場まで送ってきた。蒼白い月の下で、私は彼ら夫婦に別れた。白いこの海岸の町を、私はおそらくふたたび見舞うこともないであろう。 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・の傍人跡あまり繁からざる大道の横手馬乗場へと余を拉し去る、しかして後「さあここで乗って見たまえ」という、いよいよ降参人の降参人たる本領を発揮せざるを得ざるに至った、ああ悲夫、 乗って見たまえとはすでに知己の語にあらず、その昔本国にあって・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
出典:青空文庫