・・・と同時に悪魔もまた宗徒の精進を妨げるため、あるいは見慣れぬ黒人となり、あるいは舶来の草花となり、あるいは網代の乗物となり、しばしば同じ村々に出没した。夜昼さえ分たぬ土の牢に、みげる弥兵衛を苦しめた鼠も、実は悪魔の変化だったそうである。弥兵衛・・・ 芥川竜之介 「おぎん」
・・・ そこから、T町までは、遠かったのであります。乗り物によっても、一日は費やされたのです。気じょうぶな叔母さんをつきそいに頼んで、彼女はT町にゆき、そして、病院の門をくぐったのでした。 患者の控え室は、たくさんの人で、いっぱいでした。・・・ 小川未明 「世の中のこと」
・・・たまたまブルジョワが出て来てもしかしそれはブルジョワを攻撃するためであった。乗物は二等より三等を愛し、活動写真は割引時間になってから見た。料亭よりも小料理屋やおでん屋が好きで、労働者と一緒に一膳めし屋で酒を飲んだりした。木賃宿へも平気で泊っ・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・ 旅行に於て、旅行下手の人の最も閉口するのは、目的地へ着くまでの乗物に於ける時間であろう。すなわちそれは、数時間、人生から「降りて」居るのである。それに耐え切れず、車中でウイスキーを呑み、それでもこらえ切れず途中下車して、自身の力で動き・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・どうも乗り物は、いけない。空気が、なまぬるくて、やりきれない。大地は、いい。土を踏んで歩いていると、自分を好きになる。どうも私は、少しおっちょこちょいだ。極楽トンボだ。かえろかえろと何見てかえる、畠の玉ねぎ見い見いかえろ、かえろが鳴くからか・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・ 十 神保町交差点で珍しい乗り物を見た。一種の三輪自転車であるが、普通の三輪車と反対に二輪が前方にあってその上に椅子形の座席が乗っかっている。その後方に一輪車が取り付けられ、そうして三つの輪の中央のサドルに腰をか・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
・・・しとやかに、男の人のうしろについて、つつましく乗物にのるのが、昔の若い女性の躾でした。 毎朝、毎夕、あの恐しい省線にワーッと押しこまれ、ワーッと押し出されて、お勤めに通う若い女性たちは、昔の躾を守っていたら、電車一つにものれません。生活・・・ 宮本百合子 「新しい躾」
・・・どんな婦人でも、今の乗物には身軽こそがのぞましい。由紀子という人が、二人の子供を前とうしろにかかえて外出したということは、その一家に、留守番をしたり子供を見たりする人手の無いことを語っているのである。 警告を発するならば、先ず運輸省の不・・・ 宮本百合子 「石を投ぐるもの」
・・・自動車という文明の乗物できまった村街道を進むのではあるが、外の自然を見ていると、空気に、日光に、原始的な、神代めいた朗かさ、自由さ、豊富さが横溢して指の先へまで伝わって来るのだ。 青島も、確に珍しい見物の一つではあろう。太平洋に面し・・・ 宮本百合子 「九州の東海岸」
・・・ あっちの根元に立派なホールがあって、集った人達が笛を吹いたり※イオリンを鳴らして居るかと思うと、すぐここの根元では、すばらしい天蓋のある乗物にのって美くしい女王がそそり立った城門から並木道へさしかかって居る。 あー、あの可愛い女の・・・ 宮本百合子 「草の根元」
出典:青空文庫