・・・玉は乱れ落ちてにわかに繁き琴の手は、再び流れて清く滑らかなる声は次いで起れり。客はまたもそなたを見上げぬ。 廊下を通う婢を呼び止めて、唄の主は誰と聞けば、顔を見て異しく笑う。さては大方美しき人なるべし。何者と重ねて問えば、私は存じませぬ・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・かの三通はげに貴嬢が読むを好みたまわぬも理ぞかし、これを認めしわれ、心乱れて手もふるいければ。されどわれすでにこの三通にて厭き足りぬと思いたまわば誤りなり。今はわれ貴嬢に願うべき時となりぬ。貴嬢はわが願いを入れ、忍びて事の成り行きを見ざるべ・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・異性を恋して少しも心乱れぬような青年は人間らしくもない。「英雄の心緒乱れて糸の如し」という詩句さえある。ことにその恋愛が障害にぶつかるときには勉強が手につかないようなこともある。ことには恋愛に熱中し得る力は、また君につくし、仕事にささげ得る・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・波止場近くの草ッ原の雑草は、一カ月見ないうちに、病人の顎ひげのように長く伸び乱れているのである。 やがて歩けるようになると私は杖をついて海岸伝いの道をあるいてみる。歩ける嬉しさ、坐れる嬉しさ、自然に接しられる嬉しさは、そのいずれも叶わぬ・・・ 黒島伝治 「海賊と遍路」
・・・、雷さえ加わりたればすさまじさいうばかりなく、おそるおそる行くての方を見るに、空は墨より黒くしていずくに山ありとも日ありとも見えわかず、天地一つに昏くなりて、ただ狂わしき雷、荒ぶる雨、怒れる風の声々の乱れては合い、合いてはまた乱れて、いずれ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・金色に光った小さな魚の形が幾つとなく空なところに見えて、右からも左からも彼女の眼前に乱れた。 こんなにおげんの激し易くなったことは、酷く弟達を驚かしたかわりに、姉としての威厳を示す役にも立った。弟達が彼女のためにいろいろと相談に乗ってく・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・鮒子は響のごとくに沈んで、争い乱れて味噌汁へ逃げこんでしまう。 藤さんが笑う。 手飼の白鳩が五六羽、離れの屋根のあたりから羽音を立てて芝生へ下りる。「あの鴎は綺麗な鳥ですね」と藤さんがいう。「あれは鳩じゃありませんか」「・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ふたりで毎晩一升以上も呑むようでしたが、どちらも酒に強いので、座の乱れるようなことは、いちどもありませんでした。三兄は、決してそのお仲間に加わらず、知らんふりして自分の席に坐って、凝ったグラスに葡萄酒をひとりで注いで颯っと呑みほし、それから・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・のいたずらに青年時代を浪費してしまったことや、恋人で娶った細君の老いてしまったことや、子供の多いことや、自分の生活の荒涼としていることや、時勢におくれて将来に発達の見込みのないことや、いろいろなことが乱れた糸のように縺れ合って、こんがらがっ・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・独り荷物をかついで魚臭い漁師町を通り抜け、教わった通り防波堤に沿うて二町ばかりの宿の裏門を、やっとくぐった時、朧の門脇に捨てた貝殻に、この山吹が乱れていた。翌朝見ると、山吹の垣の後ろは桑畑で、中に木蓮が二、三株美しく咲いていた。それも散って・・・ 寺田寅彦 「嵐」
出典:青空文庫