・・・ 遠くに赤いポストが見える。 乳母車なんとかと白くペンキで書いた屋根が見える。 日をうけて赤い切地を張った張物板が、小さく屋根瓦の間に見える。―― 夜になると火の点いた町の大通りを、自転車でやって来た村の青年達が、大勢連れで・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・両何のその、岩崎三井にも少々融通してやるよう相成るべきかと内々楽しみにいたしおり候 しかし今は弁当官吏の身の上、一つのうば車さえ考えものという始末なれど、祖父様には貞夫もはや重く抱かれかね候えば、乳母車に乗せてそこらを押しまわしたきお望・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・ 朽助は、乳母車を押しながら、しばしば立ちどまって帯をしめなおす癖があり、山椒魚は、「俺にも相当な考えがあるんだ」とあたかも一つの決心がついたかのごとく呟くが、しかし、何一つとしてうまい考えは無く、谷間の老人は馬に乗って威厳のある演説を・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・ジャンパーに、半ズボンという軽装です。乳母車を押していますね。これは、私の小さい女の子を乳母車に乗せて、ちかくの井の頭、自然文化園の孔雀を見せに連れて行くところです。幸福そうな風景ですね。いつまで続く事か。つぎのペエジには、どんな写真が貼ら・・・ 太宰治 「小さいアルバム」
・・・雨の日には縁側に乳母車があがって、古下駄が雨垂れに濡れている。家の中までは見えぬがきたなさは想像が出来る。細君からして随分こんな事には無頓着な人だと見える。どうせあんな異人さんのおかみさんになるくらいの人だからと下宿の主婦は説明していたそう・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・また、エイゼンシュテインは港の埠頭における虐殺の残酷さを見せるために、階段をころがり落ちる乳母車を写した。「彫刻家が大理石とブロンズで考えるように、映画家はカメラとフィルムで考えそうして選択することが第一義である。」 役者の選択につ・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・ 危険が一瞬間に起った時さけ難い乳母車には、のせない方がいいでしょう。 小さいうちから、音楽の耳だけは作って置いた方がいいでしょうねえ。 若し声がよかったら歌を、そうでなかったら何か楽器を、絃楽の方がいいだろうと思いますが、どん・・・ 宮本百合子 「暁光」
・・・ 並木通り風景を眺めて昼間のベンチにいるのは9/10までいろんな髪と目の色をした女、及び籐の乳母車だった。 ゲルツェン通りが並木通りと交叉するニキートスキー門のところにはチミリャーゼフの記念像がたっている。像の台石のまわりには、赤、・・・ 宮本百合子 「子供・子供・子供のモスクワ」
・・・そこを巧に繰廻し、乳母車に載せて、公園の静かな小路に散歩させる時を、同時に自分の遊歩時間にあてる。又は、三時間目なら、三時間目の哺乳と哺乳との間を抜けて、自分でなければ分らない用事を果す為に外出する。一体、あちらでは、立ち上る位までになった・・・ 宮本百合子 「男女交際より家庭生活へ」
・・・ 爽やかな秋風の並木道のベンチに女がゆっくり腰かけて、繕いものをしながら乳母車にのせた赤坊を日向ぼっこさせてる。乾いた葉っぱの匂い、微かな草の匂い。自動車やトラックは並木道のあっちを通るから、小深い樹の下は静かで柔かい日光がさしとおして・・・ 宮本百合子 「モスクワ日記から」
出典:青空文庫