・・・ ああ、ツルゲネーフは、蛇と蛙の争いから、幼心に神の慈悲心を疑った。私はすこしく書物を読むようになるが早いか、世に裁判と云い、懲罰と云うものの意味を疑うようになったのも、或は遠い昔の狐退治。其等の記念が知らず知らずの原因になって居たのか・・・ 永井荷風 「狐」
・・・その入口からは、待っていた乗客が案外にすいている車と見るやなお更に先きを争い、出ようとする女房を押しかえして、われがちに座を占める。赤児がヒーヒー喚き立てる。おしめが滑り落ちる。乗客が構わずそれをば踏み付けて行こうとするので、此度は女房が死・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・源因は私ならぬ政治上の紛議の果とも云い、あるは鷹狩の帰りに獲物争いの口論からと唱え、又は夜鴉の城主の愛女クララの身の上に係る衝突に本づくとも言触らす。過ぐる日の饗筵に、卓上の酒尽きて、居並ぶ人の舌の根のしどろに緩む時、首席を占むる隣り合せの・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・飽くまでも議論して之を争い、時として是れが為めに凡俗の耳目を驚かすことあるも憚るに足らざるなり。一 巫覡などの事に迷て神仏を汚し近付猥に祈べからず。只人間の勤を能する時は祷らず迚も神仏は守り給ふべし。 巫覡などの事に・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ 彼の御広間の敷居の内外を争い、御目付部屋の御記録に思を焦し、ふつぜんとして怒り莞爾として笑いしその有様を回想すれば、正にこれ火打箱の隅に屈伸して一場の夢を見たるのみ。しかのみならず今日に至ては、その御広間もすでに湯屋の薪となり、御記録・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・またその後ジャガタラ雀が死んだので、亭主になりすまして居った前のキンパラは遂にキンカ鳥の雌に款を通じようとするので、後のキンパラと絶えず争いをして居った。一年間のこの鳥籠の歴史はほぼこういう風の盛衰であったが、その後別に飼うて居った三、四羽・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・ アメリカ国内の民主的なすべての人々は、政権争いをこえて世界をあかるくするための誠意の披瀝されたウォーレスの綱領を好意的に迎えた。共和党と根本においては大差のない民主党が、トルーマンを当選させるためには、その政策をかけひきなしに民主的人・・・ 宮本百合子 「新しい潮」
・・・小西家が滅びてから、加藤清正に千石で召し出されていたが、主君と物争いをして白昼に熊本城下を立ち退いた。加藤家の討手に備えるために、鉄砲に玉をこめ、火縄に火をつけて持たせて退いた。それを三斎が豊前で千石に召し抱えた。この吉兵衛に五人の男子があ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・二人の争いは、トルコの香料の匂いを馥郁と撒き散らしながら、寝台の方へ近づいて行った。緞帳が閉められた。ペルシャの鹿の模様は暫く緞帳の襞の上で、中から突き上げられる度毎に脹れ上って揺れていた。「陛下、お気をお鎮めなさりませ。私はジョセフィ・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・人が悠々として観る態度を取り得るのは、人間の争いに驚かない不死身な強さを持つからである。著者はシナの乞食の図太さの内にさえそれに類したものを認めている。寒山拾得はその象徴である。しからば人はいかにして不死身となり得るか。我を没して自然の中に・・・ 和辻哲郎 「『青丘雑記』を読む」
出典:青空文庫