・・・ 事実を云えば、その時の彼は、単に自分たちのした事の影響が、意外な所まで波動したのに、聊か驚いただけなのである。が、ふだんの彼なら、藤左衛門や忠左衛門と共に、笑ってすませる筈のこの事実が、その時の満足しきった彼の心には、ふと不快な種を蒔・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・それゆえ世人一般はもとよりのこと、いちばん早くその事実に気づかねばならぬ学者思想家たち自身すら、心づかずにいるように見える。しかし心づかなかったら、これは大きな誤謬だといわなければならない。その動き方は未だ幽かであろうとも、その方向に労働者・・・ 有島武郎 「宣言一つ」
・・・人が殺されたという事実がそれだろうか。自分が、このフレンチが、それに立ち会っていたという事実がそれだろうか。死が恐ろしい、言うに言われぬ苦しいものだという事実がそれであろうか。 いやいや。そんな事ではない。そんなら何だろう。はて、何であ・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・A あれは尾上という人の歌そのものが行きづまって来たという事実に立派な裏書をしたものだ。B 何を言う。そんなら君があの議論を唱えた時は、君の歌が行きづまった時だったのか。A そうさ。歌ばかりじゃない、何もかも行きづまった時だった・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・伝説じみるが事実である。が、その時さえこの川は、常夏の花に紅の口を漱がせ、柳の影は黒髪を解かしたのであったに―― もっとも、話の中の川堤の松並木が、やがて柳になって、町の目貫へ続く処に、木造の大橋があったのを、この年、石に架かえた。工事・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・君が僕に対する切実な友情を露ほども疑わないにもかかわらず、君が僕を解しておらぬのは事実だ。こういうからとて、僕は君に対しまたこんどのお手紙に対し、けっして不平などあっていうのではないのだ。君をわかりの悪い人と思うていうのでもないのだ。 ・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・こうなれば、男の方ではだんだん焼けッ腹になって来る上、吉弥の勘定通り、ますます思いきれなくなるのは事実だ。それに、ある日、吉弥が僕の二階の窓から外をながめていた時、「ちょいと、ちょいと」と、手招ぎをしたので、僕は首を出して、「なんだ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・かつ椿岳は維新の時、事実上淡島屋から別戸して小林城三と名乗っていたから、本当は淡島椿岳でなくて小林椿岳であるはずだが、世間は前身の淡島屋を能く知ってるので淡島椿岳と呼び、椿岳自身もまた淡島と名乗っていた。が、実は小林であったか、淡島であった・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・それゆえに多くの独立を望む人が政治界を去って宗教界に入り、宗教界を去って教育界に入り、また教育界を去ってついに文学界に入ったことは明かな事実であります。多くのエライ人は文学に逃げ込みました。文学は独立の思想を維持する人のために、もっとも便益・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・そして、子供は生長して社会に立つようになっても、母から云い含められた教訓を思えば、如何なる場合にも悪事を為し得ないのは事実である。何時も母の涙の光った眼が自分の上に注がれて居るからである。これは架空的の宗教よりも強く、また何等根拠のない道徳・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
出典:青空文庫