・・・もし事情が許せば、静かなこの町で隠逸な余生を楽しむ場合、陽気でも陰気でもなく、意気でも野暮でもなく、なおまた、若くもなく老けてもいない、そしてばかでも高慢でもない代りに、そう悧巧でも愚図でもないような彼女と同棲しうるときの、寂しい幸福を想像・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・で、その原因事情はいずれにもせよ、大審院の判決通り真に大逆の企があったとすれば、僕ははなはだ残念に思うものである。暴力は感心ができぬ。自ら犠牲となるとも、他を犠牲にはしたくない。しかしながら大逆罪の企に万不同意であると同時に、その企の失敗を・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・当節の文学雑誌の紙質の粗悪に植字の誤り多く、体裁の卑俗な事も、単に経済的事情のためとのみはいわれまい……。 閑話休題。妾宅の台所にてはお妾が心づくしの手料理白魚の雲丹焼が出来上り、それからお取り膳の差しつ押えつ、まことにお浦山吹きの一場・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・また階級もなくなる交通も便利になる、こういう色々な事情からついに今日の如き思想に変化して来たのであります。 道徳上の事で、古人の少しもゆるさなかったことを、今の人はよほど許容する、我儘をも許す、社会がゆるやかになる、畢竟道徳的価値の変化・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・ けれどもこの注文は、実際に於て満足されない事情がある。なぜかならば我等の芸術を装幀するものは、通例我等自身ではないからです。我等の為し得るところは、精々のところ他人の製作した者の中から、あの額縁この表紙を選定し指定するに過ぎない。しか・・・ 萩原朔太郎 「装幀の意義」
・・・平田がよんどころない事情とは言いながら、何とか自分をしてくれる気があッたら、何とかしてくれることが出来たりそうなものとも考える傍から、善吉の今の境界が、いかにも哀れに気の毒に考えられる。それも自分ゆえであると、善吉の真情が恐ろしいほど身に染・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・其両親に遠ざかるは即ち之に離れざるの法にして、我輩の飽くまでも賛成する所なれども、或は家の貧富その他の事情に由て別居すること能わざる場合もある可きなれば、仮令い同居しても老少両夫婦の間は相互に干渉することなく、其自由に任せ其天然に従て、双方・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・即ち私の心的要素を種々の事情の下に置いて、揉み散らし、苦め散らし、散々な実験を加えてやろう。そしたら、学術的に心持を培養する学理は解らんでも、その技術を獲ることは出来やせんか、と云うので、最初は方面を撰んで、実業が最も良かろうと見当を付けた・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・たまたま時間を写すものありとも、そは現在と一様なる事情の過去または未来に継続するに過ぎず。ここに例外とすべき蕪村の句二首あり。御手討の夫婦なりしを更衣打ちはたす梵論つれだちて夏野かな 前者は過去のある人事を叙し、後者は未・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・夕方父が帰って炉ばたに居たからぼくは思い切って父にもう一度学校の事情を云った。 すると父が母もまだ伊勢詣りさえしないのだし祖母だって伊勢詣り一ぺんとここらの観音巡り一ぺんしただけこの十何年死ぬまでに善光寺へお詣りしたいとそればかり云って・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
出典:青空文庫