・・・ 二 翌る日のお昼すこし前に、私が玄関の傍の井戸端で、ことしの春に生れた次女のトシ子のおむつを洗濯していたら、夫がどろぼうのような日蔭者くさい顔つきをして、こそこそやって来て、私を見て、黙ってひょいと頭をさげて・・・ 太宰治 「おさん」
・・・さいわい、戦災にも遭わず、二人の子供は丸々と太り、老母と妻との折合いもよろしく、彼は日の出と共に起きて、井戸端で顔を洗い、その気分のすがすがしさ、思わずパンパンと太陽に向って柏手を打って礼拝するのである。老母妻子の笑顔を思えば、買い出しのお・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・ 静かな春の或る朝、その朝は、さいわい一人も泊り客はございませんでしたので、私はのんびり井戸端でお洗濯をしていますと、奥さまは、ふらふらとお庭へはだしで降りて行かれて、そうして山吹の花の咲いている垣のところにしゃがみ、かなりの血をお吐き・・・ 太宰治 「饗応夫人」
・・・両家の奥さんは、どっちも三十五、六歳くらいの年配であるが、一緒に井戸端で食器などを洗いながら、かん高い声で、いつまでも、いつまでも、よもやまの話にふける。私は仕事をやめて寝ころぶ。頭の痛くなる事もある。けれども、昨日の午後、片方の奥さんが、・・・ 太宰治 「作家の手帖」
・・・ 井戸端へ出て顔を洗い、それから園子のおむつの洗濯にとりかかっていたら、お隣りの奥さんも出て来られた。朝の御挨拶をして、それから私が、「これからは大変ですわねえ。」 と戦争の事を言いかけたら、お隣りの奥さんは、つい先日から隣組長・・・ 太宰治 「十二月八日」
・・・挨拶して、すぐ裏へまわり、井戸端で手を洗い、靴下脱いで、足を洗っていたら、さかなやさんが来て、お待ちどおさま、まいど、ありがとうと言って、大きなお魚を一匹、井戸端へ置いていった。なんという、おさかなか、わからないけれど、鱗のこまかいところ、・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・しらふで前後不覚で、そうしてお隣りの奥さんと井戸端で世間話なんかしているのだからね。実に不思議だ。たしかに、女類同志の会話には、僕たち男類に到底わからない、まるっきり違った別の意味がふくまっているのだ。僕たち男類が聞いて、およそ世につまらな・・・ 太宰治 「女類」
・・・師範の寄宿舎で焚火をして叱られた時の事が、ふいと思い出されて、顔をしかめてスリッパをはいて、背戸の井戸端に出た。だるい。頭が重い。私は首筋を平手で叩いてみた。屋外は、凄いどしゃ降りだ。菅笠をかぶって洗面器をとりに風呂場へ行った。「先生お・・・ 太宰治 「新郎」
・・・おかみさんたちの、井戸端会議を、お聞きになってみると、なにかお気附きになる筈である。 後輩が先輩に対する礼、生徒が先生に対する礼、子が親に対する礼、それらは、いやになるほど私たちは教えられてきたし、また、多少、それを遵奉してきたつもりで・・・ 太宰治 「如是我聞」
・・・「全部ですよ。そんなにお疑いなら、もう、うちではお客さまに、おみおつけは、お出し致しません。」「そう願いたいね。トシちゃんは?」「井戸端で足を洗っています。」 と橋田氏は引き取り、「とにかく壮烈なものでしたよ。私は見てい・・・ 太宰治 「眉山」
出典:青空文庫