・・・ その小児に振向けた、真白な気高い顔が、雪のように、颯と消える、とキリキリキリ――と台所を六角に井桁で仕切った、内井戸の轆轤が鳴った。が、すぐに、かたりと小皿が響いた。 流の処に、浅葱の手絡が、時ならず、雲から射す、濃い月影のように・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・古色の夥しい青銅の竜が蟠って、井桁に蓋をしておりまして、金網を張り、みだりに近づいてはなりませぬが、霊沢金水と申して、これがためにこの市の名が起りましたと申します。これが奥の院と申す事で、ええ、貴方様が御意の浦安神社は、その前殿と申す事でご・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 大きな井桁、堂々とした石の組み様、がっしりしていて立派であった。 若い女の人が二人、洗濯物を大盥で濯いでいた。 彼のいた所からは見えなかったが、その仕掛ははね釣瓶になっているらしく、汲みあげられて来る水は大きい木製の釣瓶桶に溢・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・の絵を見ると、正面に大きな富士がそびえて、前景の両側には丸に井桁に三の字を染め出した越後屋ののれんが紫色に刷られてある。絵に記録された昔の往来の人の風俗も、われわれの目には珍しくおもしろい、中でも著しく自分の目につくのは平和な町の中を両刀を・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・家の紋は井桁の中に菊の紋だ。今あのへんを喜久井町というのは、僕の父親がつけたので、家の紋から、菊井を喜久井とかえたのだそうな。こんなことはそうさなあ、明治の始めごろの話だぜ、名主というものがまだあった時分だろうな。 名主には帯刀ごめんと・・・ 夏目漱石 「僕の昔」
温泉宿から皷が滝へ登って行く途中に、清冽な泉が湧き出ている。 水は井桁の上に凸面をなして、盛り上げたようになって、余ったのは四方へ流れ落ちるのである。 青い美しい苔が井桁の外を掩うている。 夏の朝である。 ・・・ 森鴎外 「杯」
出典:青空文庫