・・・しかし必ずしもそれを食うのではなく、そのままに打ちすてておいてあるのを、玉が失敬して片をつける事もあるようだし、また人間のわれわれが糸で縛って交番へ届ける事もあった。生存に直接緊要な本能の表現が、猫の場合ですらもうすでに明白な分化を遂げて、・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・ 四五人のスキャップを雇い込んで、××町の交番横に、トラックを待たせておいて、モ一人の家へ行こうと、屈った路次で、フト、二人の少年工を発見出したのだ。幸いだと思って、「オイ、三公、義公」と呼んだら、二人は変装している自分を、知ってか知ら・・・ 徳永直 「眼」
・・・やがて小流れに石の橋がかかっていて、片側に交番、片側に平野という料理屋があった。それから公園に近くなるにつれて商店や飲食店が次第に増えて、賑な町になるのであった。 震災の時まで、市川猿之助君が多年住んでいた家はこの通の西側にあった。酉の・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ 一、夜ややふけて、よその笑ひ声も絶る頃、月はまだ出でぬに歩む路明らかならず、白髭あたり森影黒く交番所の燈のちらつくも静なるおもむきを添ふる折ふし五位鷺などの鳴きたる。 一、何心もなくあるきゐたる夜、あたりの物淋しきにふと初蛙の声聞・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・今夜はどうしても法学士らしくないと、足早に交番の角を曲るとき、冷たい風に誘われてポツリと大粒の雨が顔にあたる。 極楽水はいやに陰気なところである。近頃は両側へ長家が建ったので昔ほど淋しくはないが、その長家が左右共闃然として空家のように見・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・空間があると心得なければ、また空間を計る数と云うものがなければ、電車を避ける事もできず、二階から下りる事もできず、交番へ突き当ったり、犬の尾を踏んだり、はなはだ嬉しくない結果になります。普通に知れ渡った因果の法則もこの通りであります。だから・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・ちょうど、今、あの交番――喜久井町を降りてきた所に――の向かいに小倉屋という、それ高田馬場の敵討の堀部武庸かね、あの男が、あすこで酒を立ち飲みをしたとかいう桝を持ってる酒屋があるだろう。そこから坂のほうへ二三軒行くと古道具屋がある。そのたし・・・ 夏目漱石 「僕の昔」
・・・電車がぶつかってめちゃめちゃになった三鷹の交番に警官は一人もいなかったという事実は何を物語るでしょうか。捜査のすすむにつれて三鷹の組合の副委員長をしている石井万治という人は嫌疑をかけられている書記長の自宅を訪問し、他所へつれて行って饗応し、・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・ 半分はもう忘れて居る道を、何としたのか沢山の工夫が鶴端(をそろえて一杯に掘り返して居るので、目じるしにして来た曲り角の大きな深い溝も、御影石の橋を置いた家も見失って仕舞った。 交番さえも見つからずに、あっちこっち危い足元でまごつい・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・観潮楼から斜かいにその頃は至って狭く急であった団子坂をよこぎって杉林と交番のある通りへ入ったところから、私は毎朝、白山の方へ歩いて行ったのであった。 最近、本を読んで暮すしか仕方のない生活に置かれていた時、私は偶然「安井夫人」という鴎外・・・ 宮本百合子 「鴎外・漱石・藤村など」
出典:青空文庫