・・・僕は人並みにリュック・サックを背負い、あの上高地の温泉宿から穂高山へ登ろうとしました。穂高山へ登るのには御承知のとおり梓川をさかのぼるほかはありません。僕は前に穂高山はもちろん、槍ヶ岳にも登っていましたから、朝霧の下りた梓川の谷を案内者もつ・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・――こう云う不安は、丁度、北支那の冬のように、このみじめな見世物師の心から、一切の日光と空気とを遮断して、しまいには、人並に生きてゆこうと云う気さえ、未練未釈なく枯らしてしまう。何故生きてゆくのは苦しいか、何故、苦しくとも、生きて行かなけれ・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・それは僕が人並みよりも体が弱かったためかもしれない。また平生見かける相撲が――髪を藁束ねにした褌かつぎが相撲膏を貼っていたためかもしれない。 一九 宇治紫山 僕の一家は宇治紫山という人に一中節を習っていた。この人は酒・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・「俺しは元来金のことにかけては不得手至極なほうで、人一倍に苦心をせにゃ人並みの考えが浮かんで来ん。お前たちから見たら、この年をしながら金のことばかり考えていると思うかもしらんが、人が半日で思いつくところを俺しは一日がかりでやっと追いつい・・・ 有島武郎 「親子」
・・・年の割合には気は若いけれど、からだはもう人並み以上である。弱音を吹いて見たところで、いたずらに嘲笑を買うまでで、だれあって一人同情をよせるものもない。だれだってそうだといわれて見るとこれきりの話だ。 省作も今は、なあにという気になった。・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・演習に行てもあないに落ち付いておられん。人並みとは違た様子や。して、倒れとるものが皆自分の命令に従ごて来るつもりらしかった。それが大石軍曹や。」 友人は不思議ではないかと云わぬばかりに、僕と妻君との顔を順ぐりに見た。「戦場では」と僕・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・目の下を男と女と二人並で散歩している。二人は海を見て立止った。潮風が二人の袂と裾を飜している。流石に、避暑地に来たらしい感もした。 夕飯の時、女は海の方を見て『今日は、波が高い』といったが、日本海の波をみている私には、この高いという波が・・・ 小川未明 「舞子より須磨へ」
・・・と差し出されたのを、金之助は手に取って見ると、それは手札形の半身で、何さま十人並み勝れた愛くるしい娘姿。年は十九か、二十にはまだなるまいと思われるが、それにしても思いきってはでな下町作りで、頭は結綿にモール細工の前まえざし、羽織はなしで友禅・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・逞しいといおうか、人並みはずれた実行力におれは惚れこんだのだ。 それに、貧相な面ながら、けいけいたる光を放っているあの眼、ただ世渡りをする男ではないと、おれには興味ふかい眼付きだった。むざむざ見捨てるには惜しい男だと、見込んだのだ。ちっ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・それがしは、今日今宵この刻まで、人並、いやせめては月並みの、面相をもった顔で、白昼の往来を、大手振って歩いて来たが、想えば、げすの口の端にも掛るアバタ面! 楓どの。今のあの言葉をお聴きやったか」「いいえ、聴きませぬ。そのような、げす共の・・・ 織田作之助 「猿飛佐助」
出典:青空文庫