・・・これを見た恵印法師はまさかあの建札を立てたばかりで、これほどの大騒ぎが始まろうとは夢にも思わずに居りましたから、さも呆れ返ったように叔母の尼の方をふり向きますと、『いやはや、飛んでもない人出でござるな。』と情けない声で申したきり、さすがに今・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・ 雨はもとより、風どころか、余の人出に、大池には蜻蛉も飛ばなかった。 十二 時を見、程を計って、紫玉は始め、実は法壇に立って、数万の群集を足許に低き波のごとく見下しつつ、昨日通った坂にさえ蟻の伝うに似て押覆す・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・あたかも旧の初午の前日で、まだ人出がない。地口行燈があちこちに昼の影を浮かせて、飴屋、おでん屋の出たのが、再び、気のせいか、談話中の市場を髣髴した。 縦通りを真直ぐに、中六を突切って、左へ――女子学院の塀に添って、あれから、帰宅の途を、・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・――私も今日は、こうして一人で留守番だが、湯治場の橋一つ越したこっちは、この通り、ひっそり閑で、人通りのないくらい、修善寺は大した人出だ。親仁はこれからが稼ぎ時ではないのかい。人形使 されば、この土地の人たちはじめ、諸国から入込んだ講中・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・ 濡れても判明と白い、処々むらむらと斑が立って、雨の色が、花簪、箱狭子、輪珠数などが落ちた形になって、人出の混雑を思わせる、仲見世の敷石にかかって、傍目も触らないで、御堂の方へ。 そこらの豆屋で、豆をばちばちと焼く匂が、雨を蒸して、・・・ 泉鏡花 「妖術」
私がまだ六つか七つの時分でした。 或日、近所の天神さまにお祭があるので、私は乳母をせびって、一緒にそこへ連れて行ってもらいました。 天神様の境内は大層な人出でした。飴屋が出ています。つぼ焼屋が出ています。切傷の直ぐ・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・ 小春日和の日曜とて、青山の通りは人出多く、大空は澄み渡り、風は砂を立てぬほどに吹き、人々行楽に忙がしい時、不幸の男よ、自分は夢地を辿る心地で外を歩いた。自分は今もこの時を思いだすと、東京なる都会を悪む心を起さずにはいられないのである。・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ 浜は昼間の賑わいに引きかえて、月の景色の妙なるにもかかわらず人出少し。自分は小川の海に注ぐ汀に立って波に砕くる白銀の光を眺めていると、どこからともなく尺八の音が微かに聞えたので、あたりを見廻わすと、笛の音は西の方、ほど近いところ、漁船・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ じいさんとばあさんとは、大きな建物や沢山の人出や、罪人のような風をした女や、眼がまうように行き来する自動車や電車を見た。しかし、それはちっとも面白くもなければ、いゝこともなかった。田舎の秋のお祭りに、太鼓を舁いだり、幟をさしたり、一張・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・新宿は、たいへんな人出でございます。博士は、よれよれの浴衣に、帯を胸高にしめ、そうして帯の結び目を長くうしろに、垂れさげて、まるで鼠の尻尾のよう、いかにもお気の毒の風采でございます。それに博士は、ひどい汗かきなのに、今夜は、ハンカチを忘れて・・・ 太宰治 「愛と美について」
出典:青空文庫