・・・ そこへ又通りかかったのは、年をとった支那人の人力車夫です。「おい。おい。あの二階に誰が住んでいるか、お前は知っていないかね?」 日本人はその人力車夫へ、いきなりこう問いかけました。支那人は楫棒を握ったまま、高い二階を見上げまし・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・もしまた人力に及ばなければ、……」 女は穏かに言葉を挟んだ。「いえ、あなた様さえ一度お見舞い下されば、あとはもうどうなりましても、さらさら心残りはございません。その上はただ清水寺の観世音菩薩の御冥護にお縋り申すばかりでございます。」・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・所詮は人力を尽した後、天命に委かせるより仕方はない。少時学語苦難円 唯道工夫半未全到老始知非力取 三分人事七分天 趙甌北の「論詩」の七絶はこの間の消息を伝えたものであろう。芸術は妙に底の知れない凄みを帯びているものである・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・人が思考する瞬間、行為する瞬間に、立ち現われた明確な現象で、人力をもってしてはとうてい無視することのできない、深奥な残酷な実在である。七 我らはしばしば悲壮な努力に眼を張って驚嘆する。それは二つの道のうち一つだけを選み取って・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・ その頃は医術も衛生思想も幼稚であったから、疱瘡や痲疹は人力の及び難ない疫神の仕業として、神仏に頼むより外に手当の施こしようがないように恐れていた。それ故に医薬よりは迷信を頼ったので、赤い木兎と赤い達磨と軽焼とは唯一無二の神剤であった。・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・それから人力にゆられて夜ふけの日比谷御門をぬけ、暗いさびしい寒い練兵場わきの濠端を抜けて中六番町の住み家へ帰って行った。その暗い丸の内の闇の中のところどころに高くそびえたアーク燈が燦爛たる紫色の光を出してまたたいていたような気がする。そのこ・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・何も急く旅でもなしいっそ人力で五十三次も面白かろうと、トウトウそれと極ってからかれこれ一月の果を車の上、両親の膝の上にかわるがわる載せられて面白いやら可笑しいやらの旅をした事がある。惜しい事には歳が歳であったから見もし聞きもした場所も事実も・・・ 寺田寅彦 「車」
・・・会場の入口には自動車や人力が群がって、西洋人や、立派な服装をした人達が流れ込んでいた。玄関から狭い廊下をくぐって案内された座席は舞台の真正面であった。知っている人の顔がそこらのあちこちに見えた。 独立な屋根をもった舞台の三方を廻廊のよう・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・かにの弱さいくじなさをののしってみたところでかにをさるよりも強くすることは人力の及ぶ限りでない。蜂やいが栗や臼がかにの味方になって登場するのもやはり自然の方則に従って出て来るので、法律で蜂と栗と臼の登場を禁じると、今度はさそりやばらやたくあ・・・ 寺田寅彦 「さるかに合戦と桃太郎」
・・・ いよいよ東京を立って横浜までは汽車で行ったが、当時それから西はもう鉄道はなかったので、汽船で神戸まで行くか人力で京都まで行くほかはなかった。われわれの家族は東海道見物かたがた人力のほうを選んで長い陸路の旅をつづけたのであった。第一夜は・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
出典:青空文庫