・・・とお正はうつむいた、そして二人は人家から離れた、礫の多い凸凹道を、静かに歩んでいる。「否、僕は真実に左様思います、何故彼女がお正さんと同じ人で無かったかと思います。」 お正は、そっと大友の顔を見上げた。大友は月影に霞む流れの末を見つ・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・両岸の人家低く高く、山に拠り水に臨むその数数百戸。 入り江の奥より望めば舷燈高くかかりて星かとばかり、燈影低く映りて金蛇のごとく。寂漠たる山色月影のうちに浮かんで、あだかも絵のように見えるのである。 舟の進むにつれてこの小さな港の声・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・少しも近くはならないように見えた。人家もなかった。番人小屋もなかった。嘴の白い烏もとんでいなかった。 そこを、コンパスとスクリューを失った難破船のように、大隊がふらついていた。 兵士達は、銃殺を恐れて自分の意見を引っこめてしまった。・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・ここは人家も少からず、町の彼方に秩父の山々近く見えて如何にも田舎びたれど、熊谷より大宮郷に至る道の中にて第一の賑わしきところなりとぞ。さればにや氷売る店など涼しげによろずを取りなして都めかしたるもあり。とある店に入り、氷に喉の渇を癒して、こ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・中川沿岸も今でこそ各種の工場の煙突や建物なども見え、人の往来も繁く人家も多くなっているが、その時分は隅田川沿いの寺島や隅田の村でさえさほどに賑やかではなくて、長閑な別荘地的の光景を存していたのだから、まして中川沿い、しかも平井橋から上の、奥・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・あの子供らのよく遊びに行った島津山の上から、芝麻布方面に連なり続く人家の屋根を望んだ時のかつての自分の心持ちをも思い合わせ、私はそういう自分自身の立つ位置さえもが――あの芸術家の言い草ではないが、いつのまにか墓地のような気のして来たことを胸・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・震災後は汽車の窓から眼に入る人家も激しく変って来ている頃であった。日に光るトタン葺きの屋根、新たに修繕の加えられた壁、ところどころに傾いた軒なぞのまだそのままに一年前のことを語り顔なのさえあった。 東京まで出て行って見ると、震災の名残は・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・両岸には人家や樹陰の深い堤があるので、川の女神は、女王の玉座から踏み出しては家毎の花園の守神となり、自分のことを忘れて、軽い陽気な足どりで、不断の潤いを、四辺のものに恵むのです。 バニカンタの家は、その川の面を見晴していました。構えのう・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・ 僕の家のものほし場は、よく眺望がきくと思わないか。郊外の空気は、深くて、しかも軽いだろう? 人家もまばらである。気をつけ給え。君の足もとの板は、腐りかけているようだ。もっとこっちへ来るとよい。春の風だ。こんな工合いに、耳朶をちょろちょろと・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・裾の方にある人家の群れも仄かに眺められた。平静な水のうえには、帆影が夢のように動いていた。モーターがひっきりなし明石の方へ漕いでいった。「あれが漁場漁場へ寄って、魚を集めて阪神へ送るのです」桂三郎はそんな話をした。 やがて女中が高盃・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
出典:青空文庫