・・・ あの時往来にいた人影は、確に遠藤さんだと思ったが、もしや人違いではなかったであろうか?――そう思うと妙子は、いても立ってもいられないような気がして来ます。しかし今うっかりそんな気ぶりが、婆さんの眼にでも止まったが最後、この恐しい魔法使いの・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・そう云うことにも気づかなかったと云うのは……… 保吉は下宿へ帰らずに、人影の見えない砂浜へ行った。これは珍らしいことではない。彼は一月五円の貸間と一食五十銭の弁当とにしみじみ世の中が厭になると、必ずこの砂の上へグラスゴオのパイプをふかし・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・ 国道の上にはさすがに人影が一人二人動いていた。大抵は市街地に出て一杯飲んでいたのらしく、行違いにしたたか酒の香を送ってよこすものもあった。彼れは酒の香をかぐと急にえぐられるような渇きと食欲とを覚えて、すれ違った男を見送ったりしたが、い・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・あとをふりかえって見ると、二人三人黒い人影がぼくの家の方に走って行くのが見える。ぼくはそれがうれしくって、なおのこと、次の家から次の家へとどなって歩いた。 二十軒ぐらいもそうやってどなって歩いたら、自分の家からずいぶん遠くに来てしまって・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・…… 直接に、そぞろにそこへ行き、小路へ入ると、寂しがって、気味を悪がって、誰も通らぬ、更に人影はないのであった。 気勢はしつつ、……橋を渡る音も、隔って、聞こえはしない。…… 桃も桜も、真紅な椿も、濃い霞に包まれた、朧・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・よく言う事だが、四辺が渺として、底冷い靄に包まれて、人影も見えず、これなりに、やがて、逢魔が時になろうとする。 町屋の屋根に隠れつつ、巽に展けて海がある。その反対の、山裾の窪に当る、石段の左の端に、べたりと附着いて、溝鼠が這上ったように・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・この辺の家の窓は、五味で茶色に染まっていて、その奥には人影が見えぬのに、女の心では、どこの硝子の背後にも、物珍らしげに、好い気味だというような顔をして、覗いている人があるように感ぜられた。ふと気が付いて見れば、中庭の奥が、古木の立っている園・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・もうあちらの野原を歩いてきなさる時分だろうと思って、太郎は、戸口まで出て、そこにしばらく立って、遠くの方を見ていましたけれど、それらしい人影も見えませんでした。「おじいさんは、どうなさったのだろう? きつねにでもつれられて、どこへかゆき・・・ 小川未明 「大きなかに」
・・・そして、その人影は、ふたたび船にもどると音もなく、船はどこへともなく去ってしまったのです。 青年は、赤い旗が、黄昏の海に、消えるのを見送っていました。まったく見えなくなってから、彼はがけからおりたのであります。砂の上に、ただ一つ、黙って・・・ 小川未明 「希望」
・・・ 人影もないその淋しい一本道をすこし行くと、すぐ森の中だった。前方の白樺の木に裸電球がかかっている。にぶいその灯のまわりに、秋の夜明けの寂けさが、暈のように集っていた。しみじみと遠いながめだった。夜露にぬれた道ばたには、高原の秋の花が可・・・ 織田作之助 「秋の暈」
出典:青空文庫