・・・あるものに至っては、私の人情を傷けようと思って故意に残酷に拵えさしたと思われるくらいです。きられ与三郎の――そう、もっともこれは純然たる筋じゃないが、まあ残酷なところがゆすりの原因になっているでしょう。 生涯の大勢は構わないその日その日・・・ 夏目漱石 「虚子君へ」
・・・時は凡ての傷を癒やすというのは自然の恵であって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。昔、君と机・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・三十面を下げて、馬鹿を尽してるくらいだから、他には笑われるだけ人情はまア知ッてるつもりだ。どうか、平田のためだと思ッて、我慢して、ねえ吉里さん、どうか頼むよ」「しかたがありませんよ、ねえ兄さん」と、吉里はついに諦めたかのごとく言い放しな・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・人間たる者は和順、貞信、人情深くして心静なる可し。誠に申分なき教訓にして左こそありたきことなれども、此章に於ては特に之を婦人の一方に持込み、斯の如きは女の道に違うものなり、女の道は斯くある可しと、女ばかりを警しめ、女ばかりに勧むるとは、其意・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・今の世の人情で判断すれば、この男はまだ若いと云っていい。しかしもうあまたの閲歴、しかも猛烈な閲歴を持っているから、小説らしい架空な妄想には耽らない。この男はきちんと日課に割り附けてある一日の午後を、どんな美しい女のためにでも、無条件に犠牲に・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・ちょっとすれちがいに通って女に顔を見られた時にさえ満面に紅を潮して一人情に堪なかったほどのあどけない色気も、一年一年と薄らいで遂に消え去ってしもうた。昔は一箇の美人が枕頭に座して飯の給仕をしてくれても嬉しいだろうと思うたその美人が、今我が枕・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・人類愛という声がやかましく叫ばれるときほど、飢えや寒さや人情の刻薄がひどく、階級の対立は鋭く、非条理は横行します。 わたしは、愛を愛します。ですから、このドロドロのなかに溺れている人間の愛をすくい出したいと思います。 どうしたら、そ・・・ 宮本百合子 「愛」
・・・ 殉死を許した家臣の数が十八人になったとき、五十余年の久しい間治乱のうちに身を処して、人情世故にあくまで通じていた忠利は病苦の中にも、つくづく自分の死と十八人の侍の死とについて考えた。生あるものは必ず滅する。老木の朽ち枯れるそばで、若木・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・細やかな人情家の高田のひき緊った喜びは、勿論梶をも揺り動かした。「どんな武器ですかね。」「さア、それは大変なものらしいのですが、二三日したらお宅へ本人が伺うといってましたから、そのときでも訊いて下さい。」「何んだろう。噂の原子爆・・・ 横光利一 「微笑」
・・・我々は非人情を呼ぶ声の裏にあふれ過ぎる人情のある事を忘れてはならない。娘がめっかちになって自分の前に出て来ても、ウンそうかと言って平気でいられるようになりたい、という言葉の奥には、熱し過ぎた親の愛が渦巻いているのである。 超脱の要求は現・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
出典:青空文庫