・・・足にギプスをはめた小学三年ぐらいの少年が一人いてよく出会うのだが、朝のこんな人波その中のギプス姿は、私をいろいろの回想に誘うこともある。今はまるで壮健で子供の親になっている弟も五つ六つの頃はギプスをはめて歩いていたりしたのであったから。・・・ 宮本百合子 「新入生」
・・・婦人帽の動くにつれ、微弱な、瞬間的な動揺が鋪道の人波の裡に起った。 私は、その或る時は派手な紅色の、或る時は黒い鍔広の婦人帽の下に、細面の、下品ではないが※四、四円。一月で百二十円! ふうむ」 三月の或る晩、私は従妹や弟と矢張り・・・ 宮本百合子 「粗末な花束」
・・・淋しい牛込駅の傍の坂を下って、俄に明るく、ぞろぞろひどい人波が急ぎも止まりも仕ないで急な坂を登り降りしているのにびっくりした覚えがある。今は活動写真館になっている牛込館がまだ寄席であったらしい。そこに入った。高座の上で支那人が水芸をするのを・・・ 宮本百合子 「茶色っぽい町」
・・・それでも人波の間に紛れてしばしばお清の後姿は彼等のところから――お清からは彼等が見えなくなった。 みのえはそれを楽しみ亢奮して売場、売場の間を歩いた。油井が着物を買うのに、お清母娘を誘い出したのであった。「――一人で買いにいらっしゃ・・・ 宮本百合子 「未開な風景」
・・・両手を拡げるように都会植民地の前に大柱列を並べ、人はそこまで出てしまうと西から来て再び西へ寄せ返す人波と、二つの巨大な磁石巖――株式取引所と銀行とのまわりで揉み合い塵を捲き上げつつ流れる人渦とを見るだけである。 ヨーロッパの買占人、・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
・・・あのおそろしい人波の底には若い生涯を蝕んだ悲哀と不安とが流れていたにちがいないと思われる。 空気の清純な田舎に育った青少年は結核菌に対して免疫が体内に出来ていない。生れたままの美しい肉体は病菌には非常にもろい。田舎の子は丈夫だ。田舎暮し・・・ 宮本百合子 「若きいのちを」
出典:青空文庫