・・・それが藤吉にグッと癪に触りましたというものは、これまでに朋輩からお俊は親方が手をつけて持て余したのを藤吉に押しつけたのだというあてこすりを二三度聞かされましたそうで、それを藤吉が人知れず苦にしていた矢先、またもやこういうて罵しられたものです・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ 御最後川の岸辺に茂る葦の枯れて、吹く潮風に騒ぐ、その根かたには夜半の満汐に人知れず結びし氷、朝の退潮に破られて残り、ひねもす解けもえせず、夕闇に白き線を水ぎわに引く。もし旅人、疲れし足をこのほとりに停めしとき、何心なく見廻わして、何ら・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・彼は細川が梅子に人知れず思を焦がしていることを観破ていたのである。「私には解せんなア」と校長は嘆息を吐いた。「解せるじゃアないか、大津が黒田のお玉さんと結婚しただろう、富岡先生少し当が外れたのサ、其処で宜しい此処にもその積があるとお・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・で歩くのであるから、忍耐に忍耐しきれなくなって怖くもなって来れば悲しくもなって来る、とうとう眼を凹ませて死にそうになって家へ帰って、物置の隅で人知れず三時間も寐てその疲労を癒したのであった。そこでその四五日は雁坂の山を望んでは、ああとてもあ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・の始末にも人知れず心を苦しめた。そんなことで顔を紅めさせるでもあるまいと思ったから。 次第に、私は子供の世界に親しむようになった。よく見ればそこにも流行というものがあって、石蹴り、めんこ、剣玉、べい独楽というふうに、あるものははやりある・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・これはもう長い年月の間、おげんが人知れず努めて来たことであった。生憎とその思出したばかりでも頭脳の痛くなるようなことが、しきりに気に掛った。ある日も、おげんは廊下の窓のところで何時の間にか父の前に自分を持って行った。 青い深い竹藪がある・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・私は、人知れず全身の注意を、その会話に集中させた。この家族は、都会の人たちらしい。私と同様に、はじめて佐渡へやって来た人たちに違いない。「佐渡ですよ。」と父は答えた。 そうか、と私は少女と共に首肯いた。なおよく父の説明を聞こうと思っ・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・麦の畑でない処には、蚕豆、さや豌豆、午蒡の樹になったものに、丸い棘のある実が生って居るのを、前に歩いて行った友に、人知れず採って打付けて遣ったり何かすると、友は振返って、それと知って、負けぬ気になって、暫く互に打付けこをするのも一興である。・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
・・・そうして球技場の眩しい日照の下に、人知れず悩む思いを秘めた白衣のヒロインの姿が描出されるのである。 つまらない事ではあるが、拘留された俘虜達が脱走を企てて地下に隧道を掘っている場面がある、あの掘り出した多量な土を人目にふれずに一体どこへ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・という危険な書物の一部を、禁断の木の実のごとく人知れず味わったこともあった。一方ではゲーテの「ライネケ・フックス」や、それから、そのころようやく紹介されはじめたグリムやアンデルセンのおとぎ話や、「アラビアン・ナイト」や「ロビンソン・クルーソ・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
出典:青空文庫