・・・ あの時往来にいた人影は、確に遠藤さんだと思ったが、もしや人違いではなかったであろうか?――そう思うと妙子は、いても立ってもいられないような気がして来ます。しかし今うっかりそんな気ぶりが、婆さんの眼にでも止まったが最後、この恐しい魔法使いの・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・が、相手は編笠をかぶったまま、騒ぐ気色もなく左近を見て、「うろたえ者め。人違いをするな。」と叱りつけた。左近は思わず躊躇した。その途端に侍の手が刀の柄前にかかったと思うと、重ね厚の大刀が大袈裟に左近を斬り倒した。左近は尻居に倒れながら、目深・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ やっと目を挙げた支那人はやはり驚いたようにこう言った。年とったもう一人の支那人も帳簿へ何か書きかけたまま、茫然と半三郎を眺めている。「どうしましょう? 人違いですが。」「困る。実に困る。第一革命以来一度もないことだ。」 年とっ・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・以前、毛利主水正を、水野隼人正が斬ったのも、やはりこの人違いであった。殊に、手水所のような、うす暗い所では、こう云う間違いも、起りやすい。――これが当時の定評であった。 が、板倉佐渡守だけは、この定評をよろこばない。彼は、この話が出ると・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・何でも猿の殺されたのは人違いだったらしいという噂である。桃太郎はこういう重ね重ねの不幸に嘆息を洩らさずにはいられなかった。「どうも鬼というものの執念の深いのには困ったものだ。」「やっと命を助けて頂いた御主人の大恩さえ忘れるとは怪しか・・・ 芥川竜之介 「桃太郎」
・・・「いや、人違いでない。まったくあなたでした。水色の着物をきて、盲目の十ばかりになる、男の子が吹く笛の調子に合わせて、唄をうたって踊っていたのは、たしかにあなたです。」と、黒んぼは疑い深い目つきで、娘をながめながらいいました。 姉は、・・・ 小川未明 「港に着いた黒んぼ」
・・・ とその女を見返したのであるが、そのとき吉田の感じていたことはたぶんこの女は人違いでもしているのだろうということで、そういう往来のよくある出来事がたいてい好意的な印象で物分かれになるように、このときも吉田はどちらかと言えば好意的な気持を・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・直立不動の姿勢でもってそうお願いしてしまったので、商人、いいえ人違いですと鼻のさきで軽く掌を振る機会を失い、よし、ここは一番、そのくぼたとやらの先生に化けてやろうと、悪事の腹を据えたようである。 ――ははは。ま。掛けたまえ。 ――は・・・ 太宰治 「狂言の神」
出典:青空文庫