・・・その草もない薄闇の路に、銃身を並べた一隊の兵が、白襷ばかり仄かせながら、静かに靴を鳴らして行くのは、悲壮な光景に違いなかった。現に指揮官のM大尉なぞは、この隊の先頭に立った時から、別人のように口数の少い、沈んだ顔色をしているのだった。が、兵・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・そう云う苦しい沈黙が、しばらくの間続いた後で、お敏は涙ぐんだ眼を挙げると、仄かに星の光っている暮方の空を眺めながら、「いっそ私は死んでしまいたい。」と、かすかな声で呟きましたが、やがて物に怯えたように、怖々あたりを見廻して、「余り遅くなりま・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・電燈の反射をうけて仄かに姿を見せている森。そんなものが甍越しに見えた。夜の靄が遠くはぼかしていた。円山、それから東山。天の川がそのあたりから流れていた。 喬は自分が解放されるのを感じた。そして、「いつもここへは登ることに極めよう」と・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・乳のあたり、腰から太股のあたりが、カンテラの魔のような仄かな光に揺れて闇の中に浮び上っている。 そこには、女房や、娘や、婆さんがいた。市三より、三ツ年上のタエという娘もいた。 タエは、鉱車が軽いように、わざと少ししか鉱石を入れなかっ・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・裾の方にある人家の群れも仄かに眺められた。平静な水のうえには、帆影が夢のように動いていた。モーターがひっきりなし明石の方へ漕いでいった。「あれが漁場漁場へ寄って、魚を集めて阪神へ送るのです」桂三郎はそんな話をした。 やがて女中が高盃・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・ささやかな紙の障子はゆるがぬ日に耀き渡りマジョリカの小壺に差した三月の花 白いナーシサス、薄藤色の桜草はやや疲れ仄かに花脈をうき立たせ乍らも心を蕩す優しさで薫りを撒く。此深い白昼の沈黙と・・・ 宮本百合子 「海辺小曲(一九二三年二月――)」
・・・私は仄かな悦びを覚えた。けれども、その様子を見守って居るうちに、私はそぞろ物哀れを覚えて来た。 此処に、今、彼を害そうとする意志を持ったものは、恐らく塵一つありはしないだろう。勿論、当然恐ろしかるべき猫や犬は影さえない。脅しの影を投げる・・・ 宮本百合子 「餌」
・・・ 書きながら、私は霧かとでも思うような何ものかが、仄かに胸を流れ去るのを感じる。彼方が、はっきり心像の中に甦った。黒い木の大門が立っている。衝立のある正面の大玄関、敷つめた大粒な砂利。細い竹で仕切った枯れた花壇の傍の小使部屋では、黒い法・・・ 宮本百合子 「思い出すかずかず」
紫苑が咲き乱れている。 小逕の方へ日傘をさしかけ人目を遮りながら、若い女が雁来紅を根気よく写生していた。十月の日光が、乾いた木の葉と秋草の香を仄かにまきちらす。土は黒くつめたい。百花園の床几。 大東屋の彼方の端・・・ 宮本百合子 「百花園」
・・・そこには、仄かに父が自分の結婚や家庭や子供たちの教育について抱いていた若々しい希望というようなものが語られているから。 だけれども、もしかしたら、これを書いたのは叔父の省吾という人ではなかったかしら。この人の字癖を知らないけれど、父とは・・・ 宮本百合子 「本棚」
出典:青空文庫